2014年03月30日

アベノミクスの1年を振り返って-今、見えてきたこと - 林川眞善

               -  目  次  ―

はじめに:順調に進んできたアベノミクスですが 
1. アベノミクスの1年を振り返る
― 指標にみるアベノミクスの成果と課題
          (1)経常収支の赤字が示唆すること
          (2)企業の設備投資の伸び悩みが意味すること
2.アベノミクスと、国際環境のいま
          (1)安倍政治の右傾化と日米関係
          (2)対ロ制裁と日本の立ち位置
おわりに:ポスト・アベノミクスは‘水素経済’へパラダイムシフトを

  
はじめに:順調に進んできたアベノミクスですが

3月3日付日経新聞が一面トップに掲げた「政府フアンド、日本株買い」の記事は筆者の関心を強く引き付けるものでした。その内容は、海外の政府系フアンドが日本株投資を拡大している様子を報じたもので、具体的にはノルウエー政府年金基金が昨年末で約3兆7千億円の日本株を保有し、1年前からほぼ倍増しているというものの他、中東、アジアの政府系フアンドの日本株投資の拡大状況も同様に伝えるものでした。そして、彼らの保有銘柄は1284、この内、保有額が多い銘柄は、トヨタ、ソフトバンク、フアナックという事ですが、こうした動きはアベノミクスを機に日本企業の構造改革が進み、成長力が高まるとの期待がそうさせている、と言うものでした。

周知のように2012年12月26日、それまでの民主党政権に代わって誕生した安倍新政権は、自らを「危機突破内閣」と称し、長期のデフレと円高で苦しむ日本経済の再生に向け、まずは‘デフレからの脱却、そして円高の是正と日本経済の競争力の回復を図り、日本経済を成長させていく事を通じて、日本を取り戻す’ことを目指し、2013年1月4日、三つの矢(金融緩和、財政出動、成長戦略)からなる経済政策「アベノミクス」を発表しました。

果たせるかな、昨年4月に始まった第1の矢、異次元の大幅な金融緩和政策の実施で、それまでの円高は是正が進み、株式市場は活性化し、企業収益の改善も進むなか、個人消費も回復をみる一方、第2の矢と言われる補正予算とも併せた大規模財政出動を受け、公共投資が進むなどで、需要は回復、日本経済の環境は急速な改善が進み、明るさを取り戻してきました。まさにデフレ脱却への道筋が見えてきたと言うものです。

因みに、2月17日、内閣府が発表した2013年第4四半期の実質GDP(速報値)は年率で前年比1.0%増と、4四半期続けてのプラス成長となっていますし、同じく2月24日に発表された「需給ギャップ」(需要と潜在的な供給力の差)の試算では、2013年第4四半期にはマイナス1.5まで縮小(改善)しています。これも4四半期連続での改善で、少しずつ供給過剰が和らぎデフレ圧力が弱まってきたことを示唆する処です。リアルの経済活動でも、1月の景気指標は軒並み改善してきており、鉱工業生産指数は前月比で4.0%上昇と高い伸びを示したほか、有効求人倍率も前月比0.1ポイント上昇で1.04倍となっていますし、総務省発表の1月消費者物価指数もプラスと、安倍政権が目指すデフレ脱却への道筋が見えてきたとされる処です。 

(注)3月10日、内閣府が発表した2013年第4四半期のGDP改定値では実質成長率は0.7%に下方修正されています。その主たる要因は設備投資で、速報値の0.8%増から0.5%に修整されたことが大きく影響した結果ですが、後述輸出の伸び悩みなどを受け国内での大型投資に企業が慎重になっていることを示唆する処であり、この辺りが問題の本質を映す処と思料するものです。

以上の推移に照らし、政府は3月月例経済報告では景気の基調を「緩やかに回復している」と判定しています。そして大規模と言われる2014年度の予算案(一般会計総額、95兆8823億円)は3月20日、参院で可決され、年度内の成立をみたことで、経済再生とデフレ脱却を目指す安倍政権の予算は、新年度当初から始動できる環境も整ったと云う処です。つまり、アベノミクスは漸くみえてきた回復への道筋を本格回復につなげていく、そうした期待を以って2年目に入るというものです。

しかし、そうした環境にも拘わらず、アベノミクスはいま転機にあるように見受けられるのです。というのも、いま明るさを取り戻してきたと言う日本経済ですが、現下の回復が金融と財政だけに支えられたものであること、従って実体経済が動き出さないかぎりにおいては、これが本格回復には至らず、結局はシュリンクしてしまうのではとの懸念が広がってきています。その点、安倍首相は、この6月には第3の矢、実践的な成長戦略を打ち出すとしており、期待する処です。

が、それ以上に問題なのは、近時GDP指標の推移からわかるように、日本経済が向きあう構造問題が鮮明となってきたという事です。具体的には後述する通り、経常収支の赤字の拡大と、(これは輸出の伸び悩みというよりは、主として円安効果による輸入額の増大による貿易赤字の拡大を映すものですが)、従来、経済成長の誘導要因とされてきた企業の設備投資が伸び悩んできている、という事ですが、問題は、これら指標が示唆する動きが構造化しつつあるという事で、これら問題への対応を踏まえた更なる戦略の構築が不可欠となってきた、そう言った意味でアベノミクスはいま転機に置かれてきたと云うものです。

加えて、こうした純経済的問題を超えて急速に進む内外での政治環境の変化が更に、アベノミクスの先行きに不安を託つ処となってきているというものです。
それは、近時、国家主義的行動にカジを切りだした安倍首相の政治姿勢に負う処ですが、これが右傾化として中国、韓国はその批判を強めていますが、ここに至って‘同盟国たる米国’からも安倍首相の政治行動を公に批判する等で、日米関係がギクシャクし、時に隙間風すら流れる状況になってきているという事態です。日米関係は日本の政治経済の運営の基本軸にあっただけに極めて問題と思料される処です。更に、現下で進むウクライナを巡るロシアと米国・欧州の対立で、新冷戦とも称されるような国際環境にあって、日本の対米、対欧,対ロシア姿勢の如何が問われる状況にあり、要は、安倍政権は今、経済政策と外交・安全保障政策のバランスをどう取るかと言う極めてデリケートな問題との対峙を余儀なくされているのですが、それはまた大きな要因と見る処です。

つまり、これら内外にみる政治経済の環境変化は‘アベノミクス’の基盤にかかるものだけに、今後の対応の如何が問われる処であり、まさに転機に立たされる‘アベノミクス’を感じさせられるというものです。デフレからの脱出への道筋が見えてきた状況にある処ですが、仮に、そうした内外環境の変化が強まり、‘経済’はその後、といったことにでもなれば、結局はアベノミクスの頓挫は避けられず、最悪の場合、大量の財政赤字を抱えたまま、日本経済は再びデフレ経済に逆戻りかと、懸念されると言うものです。

そこで、本稿では、アベノミクスが2年目に入るのを機に、アベノミクス1年のレビューを通じ、そこに見るマクロ、ミクロの構造問題につぃて、日本経済の持続可能な発展という視点から検証し、同時にアベノミクスを巡る内外環境、とりわけ日米関係に焦点をあて、その実情を分析し、要は、これからの日本経済が目指すべき姿について、論じていきたいと思います。


1.アベノミクスの1年を振り返る
―指標にみるアベノミクスの成果と課題

20年来、デフレに喘できた日本経済はアベノミクスという政策展開を以って、いま漸く明るさを取り戻してきたこと、そして、その動きを本格回復軌道に乗せていく為には成長戦略の具体化、実行が求められる実情にある事、前述の通りです。
しかし、直近のGDP指標の内、国際収支(経常収支)、設備投資の動きは、実体経済が抱える構造的な問題を映し出す処となっています。具体的には、‘経常収支の赤字拡大’、そして‘設備投資の伸び悩み’、ですが、両者の動きは実体経済が抱える問題の構造化を示唆する処となってきており、それへの対応が大きな課題となって迫ってきていると言うものです。では、これをどう評価し、どう対応していくべきか、ですが、それはアベノミクスを生かすことが出来るか否か、が問われていくプロセスとも思料され、その点でアベノミクスは転換点にあると言うものです。以下、二つの問題に絞って論じていきます。

(1)経常収支の赤字が示唆すること

3月10日、財務省が発表した1月の国際収支(速報)では経常収支(貿易収支、サービス収支)が1兆5800億円の赤字となっています。(但し、輸出は5兆5167億円と17%増。)これは‘85年以降最大の赤字で、しかも、4か月連続の赤字という初の経験でした。この赤字の背景は、円安の進行で輸入価格が膨らむ一方で、輸出は企業の海外移転、現地調達が進む結果、円安による輸出の押し上げ効果は限定的となっており、いま純輸出(輸出-輸入)はGDPでの減少要因になっていると言うものです。勿論、経常赤字は、内外の市場環境と、企業の経営姿勢を反映した結果というものですが、この点については次項の投資問題と併せ、論じたいと思います。従い、ここで問題とするのは、単に経常赤字が悪い、黒字が良い、と言った事でなく、これが回りまわって国の財政の在り方の如何が問われていく事になると言う点、つまり日本経済の運営という、より基本的な構造問題としての視点から論じてみたいと思います。

周知のとおり、これまで「財政赤字」は国債で穴埋めすることで推移してきています。そして、この国債消化には、これまで好調な輸出(貿易黒字)が齎してきた経常黒字が充てられてきています。その点で、「経常収支の赤字」が続くとなると国債の消化が安定的に進め得るのかと、現在の財政構造を前提とする限り、この推移の如何では、事態は更に‘深刻なもの’となりかねないのという事です。パラドクス的に言えば、外的要因に影響されることなく財政を維持していこうとすれば、「入る(歳入)を図り、出る(歳出)を制す」という二面作戦での‘財政の合理化’‘に挑むことが必然となる処です。

まず、歳入の強化という点ですが、現下のアベノミクスの文脈においては、何よりも景気を回復させること、そして企業の活力を高め、法人等の税収入を上げていく事が、第一義となる処で、その為には、現在活力を阻害している要素、規制の改廃を実行し、雇用の流動化、税制の改革を進めていくかが喫緊となる処です。もとより、これが6月に予定されるアベノミクスの新成長戦略に組み込まれていくべき処というものです。一方の歳出抑制という点では、常識的には不急不要の支出の選別は言うまでもないところですが、その際は、特に念頭に置いておくべきは少子高齢化が齎す影響です。人口減少、とりわけ労働者人口の減少(注)で、税収入面でも大きく影響が及ぶ処ですが、何よりも高齢化の進行で社会保障費の拡大で財政運営は今以上に厳しくなっていく事が予想される処です。

(注)3月12日、内閣府纏めの2060年時の労働力人口は、出生率が大幅に回復し、北欧並みに女性や高齢者の労働参加が進んでも約50年で、1170万人、労働力人口が減ると予想。女性活用などが進まない場合、減少幅は2782万人に拡大すると。

勿論これは、長期的構造的問題であり、一朝一夕に解決可能なテーマではありません。が、人口動態からはリアルに想定できる課題である点で、財政の健全化、合理化を進めていく上で、まず医療等の利権がらみの諸規制の改革に踏み込んでいく事で、歳出拡大を抑えていく環境づくりを進めることが喫緊の課題というものです。つまりは、国債への依存率を下げ、規律ある財政に持って行くためには、これは、いま日本経済が抱える基本問題ですが、規制改革こそがその核心の一つという事です。そして、これこそは‘政治’の出番とされるだけに、安倍政権の本当の力量が問われる処と思料するのです。

(2)企業の設備投資の伸び悩みが意味すること
― 企業はいま経営革新を

次に問題とされるのがこれまで経済の成長誘因であった企業の設備投資が伸び悩みにあるという現実です。その現実とは、特にリーマン以降、リーマン後の企業は、経営の合理化、資金の効率追求等に走り、極めてリスクコンシャスであり、新規投資は抑制的で、その結果は不稼働資金といわれる内部留保となって企業内に留まる処で、経営は内向となってきたという事情です。この間、経済のグローバル化が進み、そうした環境にあって、企業はコストと市場の可能性を考えた限界的な海外進出を進めてきた結果、国内的にはいわゆる空洞化が進み、日本からの輸出は伸び悩み、輸出需要を見込んだこれまでの設備投資も鈍化してきたと言う事です。

しかし、そうした経営はいま変革を求められてきているのです。つまり前述した通り、人口動態からは、縮小が予想される国内市場に目をやっていただけでは、企業は自らの成長に限界を招くことを自覚し、従って、そうしたトレンドを断ち切るためにはポテンシャルの高いグローバル経済を取り込んだ経営にシフトすることが不可避となってきていると言うものです。つまり、激変するグローバルな競争環境、変化する‘競争の形’を含めた海外市場の構造変化を常に読み解き、戦略的製品開発のための設備投資を進めていくことが不可避となってきており、こうした環境変化を味方とした企業へとスタイルを代えていかざるを得ない状況にあるのです。ハーバード・ビジネス・スクールのクリステンセン教授が予てイノベーションには三つの形があり、一つは現状維持のためのイノベーション、一つは合理化のためのイノベーション、そしてもう一つは市場開発に向けたイノベーションだとしながら、いま日本企業に求められるのは第三のイノベーションだとアドバイスをしています。つまりは経営の革新です。それはかつてホンダやソニーの経営者が見せたような市場創造の経営姿勢に迫るとも云うもので、これこそはデフレ経営脱却に繋がる処です。


改めて、現下の景気回復が金融緩和による円安効果に支えられたものである限り、リアルで実弾の欠ける経済状況では、回復歩調も限界が見えてくると言うものです。つまり、日本経済の成長回復やデフレ解消と言った大きな問題は、株価の改善と直接関係するわけではないという事、従って、この際は、危機感を以って、現下の回復過程で鮮明となってきた上述課題、問題を来たるべき成長戦略のテーマとして早急、具体的に対応していく事が必定であり、かかるアクションがない限り本格的な経済回復はありえず、アベノミクスはいま2年目を迎え、大きな転機にあると言うものです。
要は、回復しつつある日本経済を本格軌道に乗せていくべく、国も企業も内向き姿勢を排し、財政の支援に頼ることなく、これまでの経済の活力をグローバル経済との連携強化を通じて、持続的なものとしていく事、そして、予て首相が云うように働きやすい環境づくり、規制の改革に向けた具体的行動を早急に起こすべきと思料されるのです。

因みに、2月18日付Financial Timesは `Breathing new life into Abenomics ‘ と題して、今後不安が付きまとう点として、次のように指摘するのです。
つまり、円安の恩恵を享受する企業が輸出や海外で挙げた利益のほとんどを経済に還流させていない。投資意欲を失っているだけでなく、従業員の賃上げを避けている。賃上げを通じて新たな資金を経済に注入すれば消費者の購買力を支え、多くは企業に戻ってくる。ただアベノミクスの将来が日本企業にかかっている事はおかしい。法人税の引き下げを通じて消費増税の影響を弱めるなど政府ができる事はもっとある。構造改革も然りだ。「三本の矢」の内、最も期待はずれなのは構造改革とし、更なる息吹をアベノミクに注入すべし、と言うのです。


2. アベノミクスと国際環境のいま
―安倍政治の右傾化と日米関係

さて、上記Financial Timesに批判をうけたアベノミクス第3の矢「成長戦略」ですが、以上の事情からは、新たな産業政策の整備と、それを踏まえた実践的なシナリオの策定が必定というものです。ただその政策運営については‘内なる変化’、‘外なる変化’を勘案するとき、先に指摘した以上に、いま転機に遭遇するアベノミクスを感じさせられる処です。ここで言う内なる変化とは、安倍政治の右傾化、であり、外なる変化とは日米関係に見る変化です。

(1)安倍政治の右傾化と揺らぐ日米関係

周知の通り、安倍首相は近時、国家主義的姿勢を急速に強め当該政治行動を進めています。そして、これが齎す対日批判が構造化してきていることが今、大きな問題となってきているのです。昨年の後半、特定秘密保護法案が出されたころから安倍首相の右寄りの言動が顕著となってきていますが、昨年末の安倍首相の靖国参拝はその極みとする事件でした。更には集団的自衛権行使容認問題に向けた行動、エネルギー政策と原発問題、中断したTPP交渉、NHK会長の発言問題等政治事情に追われ、更には後述するようにウクライナを巡る米欧とロシアとの対立の狭間にあって日本の立ち位置を探るなどで、いまや経済問題の影が薄くなってきていることが大いに気がかりというものです。

安倍首相のこうした行動に対して中国、韓国は一層の対日批判を国際的に繰り広げていますが、それ以上に問題なのは、同盟国たる米国までもが靖国参拝を巡って、公に対日批判を行うようになってきたことです。(注)

去る12月の安倍首相の靖国参拝は歴史問題を云々する中国、韓国との対立を深める処となっていますが、同盟国米政府も参拝に対しdisappointed,「失望」と、今までにない表現で安倍首相を批判したのです。靖国神社は中国、韓国からは自責の念のない日本の軍国主義の象徴とみなされており、米国政府も内々にはこれまで靖国参拝への不満を述べていたのです。しかし、公然と批判発言をしたことは初めての事で、日本政府は驚いたと言われています。一方、日本の首相周辺からはこうした米国に対する批判発言が出るなどで日米関係には隙間風が吹き出していると言うものですが、どうも‘いま変わりつつある米国’そして‘日本にいらだつ米国’への理解の乏しさを感じさせる処というものです。

因みに、日米双方のすれ違いについてFinancial Times (2014/2/20)は以下のように指摘するのです。同紙は`Washington regrets the Sinzo Abe it wished for’、つまり、安倍首相を望んだことを米政府は悔やんでいる、というのです。というのも、1950年以降、ずっと米国は日本に対して今安倍首相が提唱する国防態勢を取ることを迫って来ていましたが、日本は、これを平和主義を謳った憲法9条を以って拒否する一方、米国の核の傘の下、経済成長を果たしてきたと、つまりフリー・ライダー論がそこにあったのです。しかし、60年を経た今、日本には米国の要請を言葉通りに受けとめる指導者、‘安倍晋三’が出てきたというのですが、その彼の直近の言動からは、日本をいまや「予測不能で危険」な国(ケリー国務長官)とみなすまでになってきたというのですが、その背景には、日本のナショナリズムが北京で対抗措置を引き起こすことへの不安があると指摘するのです。

この点、オーストラリアの学者で元国防相の高官のヒュー・ホワイト氏のコメントをリフアーし「米国としては、中国と対立の危機を起こすくらいなら日本の国益を犠牲にする」事を意味しているとも言うのです。いずれにせよ、米国の望みに逆らって靖国を参拝する事は、常に、日本は米政府の命令に従うわけではないと言う合図を送る一つの方法ではないかというのです。そして、そうした右派の奇妙なところとして、彼らは最も熱心な日米同盟支持者だとも指摘するのですが。

(注)高まる米国の対日批判:
①米議会調査局:2月20日付の米議会調査局がまとめた日米関係報告書では、靖国参拝が日中、日韓の関係を一段と悪化させた、と指摘すると同時に米国の制止を振り切って参拝した安倍首相を「日米関係を複雑化させる指導者としての本質をはっきりと証明した」と批判しています。尚、昨年、参院選後の日米関係について、同様の懸念を伝えていましたが、(2013年9月号、弊論考)それが更に加速したと言う処です。
  ②NYタイムズ紙:3月2日付(電子版)Mr. Abe’s Dangerous Revisionism と題し、安倍
首相の姿勢を「ナショナリズム」と指摘し、靖国参拝、国家主義的行動が日米関係の「ますます深刻な脅威になっている」つまり安倍氏の「国家主義」が危険という。

これまでの‘日本経営、’つまり日本の経済・外交の基本軸は日米関係にありました。が、その関係が揺らぎを見せだしたという事は、経済政策たるアベノミクスの在り方も問われていく事になる処、米国の変化を理解し、日本の期待とも併せ関係の再構築が喫緊のテーマと思料されると言うものです。その点、4月に予定されている東京でのオバマ米大統領との首脳会談では、単に、戦争の火ダネを消す姿勢ではなく、戦争がそのタネ火を探している現状を認識し、日米の世界における役割を再確認し,それに沿った双方に求められる行動様式を確認すること、そして同盟関係の再構築を目指すべきですが、その際のポイントは、日本の優位は経済にある事、そしてその優位を日米関係の再構築の中で如何に確かなものとしていくか、にあるものと思料する次第です。

(2)対ロ制裁と日本の立ち位置

更に事態を難しくしているのが、現下で進むウクライナのクリミア半島の統治を巡るロシアと米欧との対立です。この新冷戦構造とも称される国際環境にあって、ロシアとの領土問題を含めた外交関係の改善を進める安倍政権にとって同盟国米国との間で、その立ち位置の取り方が難しくなってきているというものです。つまり、日本にとっては、領土と歴史問題で中国とロシアが組み、日本に圧力を強めてくる事態は避けたい事は言うまでもない処です。だが日本がロシアに配慮して日米結束が傷つけば、かえって中国の対日強硬を招きかねない、という事で安倍政権がどのように対応するか、つまりは米露が対立する状況にあって、米国の同盟国日本の立ち位置が極めて難しくなってきたというものです。

要は、既にそこにある日中関係、日韓関係の悪化進行とも併せ、みるとき、「グローバル経済で勝つ」を戦略軸とするアベノミクスの政策展開は、安倍政治の国家主義的姿勢ともかさなり、難しくなっていく様相を強める処ですが、この際は、安倍政権は‘経済’専一、アベノミクスの仕上げに専念すべきと、改めて思う次第です。


おわりに: ポスト・アベノミクスは‘水素経済’へパラダイム・シフトを

さて、安倍首相は予て「成長戦略の更なる進化を図るために、雇用・人材、農業、医療・介護といった構造改革に取り組む」と明言し、実質2%成長を目指すとして来ています。だが、過去1年、そこで特定されているような動きなどは見られていません。何故か?
言い古されてきた事ですが、‘既得権益’と‘政治’が絡みつき身動きが取れないという事なのでしょう。であればこの際は、成長阻害要因を超えた将来像を描き、それに向かった行動を起こしていくべきと思料するのです。
それは‘アベノミクス後’を描き、それに向けたアクセスをどうするか、そのシナリオを準備していくという事です。そして、その際のキワードは‘エネルギー’であり‘人口減少経済’といえますが、取り敢えずはエネルギーに絞って論じてみたいと思います。

3年前の東日本大震災の直後、東電福島原発の大事故を目の当たりにして、国民の8割が原発反対と声をあげた筈でした。しかし、3年たったいま、安倍政権は、経済成長とエネルギー源確保、コスト面等からみて原発再開を可能とするようなシナリオでエネルギー政策を打ち出そうとしています。そして、反原発の声もいつしか引いてしまってきています。のど元過ぎれば、と言った処なのでしょうか。しかし、東電福島の原発事故処理が‘全く’解決を見ないままにあって、原発再稼働など全くお呼びではない筈です。

では原発に代わる新たなエネルギーをどう考えるか、ですが、有力候補としてあるのが水素エネルギーです。水素エネルギーの活用については、日本は世界的に見て早い時期から取り上げてきており、因みに、経産省と新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)は共同して2002年から「水素・燃料電池実証プロジェクト(JHFC)」を進め現在では、その実証を終え、実用化の段階にあるというものです。

問題は、これまでがんじがらめとなっていた電力の供給システムですが、これがいま自由化へ動き出し始めたのという事で、新たな可能性が出てきたと言う事です。つまりは、小規模企業もこの水素エネルギーを以って市場参入が可能となってきたということで、その可能性が今広がりつつあるのです。勿論、雇用機会も生まれてくる、そういった新しい環境が期待されると言うものです。

偶々、先の選挙で都知事に就任した舛添氏は2020年の東京オリンピックに備え、クリーン・エネルギで動く自動車、燃料電池自動車(FCV)の開発を進め、そのために必要なインフラとしての水素ステーションを設置する構想を打ち出し、その為の戦略会議を立ち上げることを3月5日開催の都議会定例会議で発表しているのです。これは東京という一都市での試みと映りますが、これがオリンピックという機会を生かして進めるプロジェクトでもあることからは、地方への拡がりも進むでしょうし、産業全体に及ぼす効果も甚大なものと期待できると言うものです。勿論PM2.5といった公害問題など全く関係なく、クリーンで、何よりも水素資源は無限であるという事が決定的というものです。勿論、普及が進めばコストも安価なものとなっていく事は言うまでもありません。そしてその変化の枠組みにおいて、規制に守られた産業などの融解も進み、これまでの経済も、新しいシステムに再生されていく事になる筈ですし、それは又、人口減少経済への適応プロセスとも言える処です。
つまり、アベノミクス後の経済として構想されるべきは、20世紀を主導してきた‘炭素経済を水素経済へ’とパラダイム・シフトを図っていく事であり、いまその旗を掲げ‘新しい成長’を目指していくべきと、思料するのです。

さて、近時、安倍首相は経済を手段ともする形で、国防体制の強化に向かう等、国家主義的姿勢を強め、いつしか彼の言行からは‘国民’という言葉も見えにくくなってきています。些かの懸念を禁じ得ません。処で、安倍首相が予て師と仰ぐ高橋是清は、軍国主義の当時にあって、軍備拡張は国民生活に資するにあらずと、当該予算の削減に命を張り、軍と対峙する一方で、常に国民を中心に置く政治を目指した政治家であり、リーダーでした。そうした二人の姿を戴くとき、この際は、リーダーかくあるべしと、今一度、彼には是清に学ぶべきを、慫慂したいと思うのです。

以上
O
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2013年11月19日

アベノミクスの検証-高橋是清から何を学ぶのか - 松井幹雄

1・生い立ちと時代環境
高橋是清は、1936年2月26日、岡田啓介内閣の大蔵大臣として陸軍青年将校の凶弾に斃れ、81年の波乱の生涯を終えた。二・二六事件であり、この時期から日本は、中国大陸で戦線を拡大し、そのまま太平洋戦争に突入する。彼は、その前に立ちはだかる障害として排除されたのである。高橋は、日露戦争終結の頃から「財政金融の第一人者」と目されるようになったが、軍事力を増強し世界の中で孤立化するのではなく、英米と協調しながら経済発展を図ることが日本の生きる道だという国家観を、確固たるものとしたのもこの頃だった。
高橋の生涯は、その活躍した期間の長さ、時代に残した足跡の大きさ、さらにはその浮沈の激しさにおいて文字通り波瀾万丈であった。数奇な出自と英語力習得を巡る幼少から10代前半にかけて異常ともいえる体験を重ね、そこから30代前半まで仕事の変遷と振幅の大きい生活が続いたが、常に前向きであり学習意欲も旺盛だった。そして、明治後期から大正の初期まで国際金融分野の専門家として経綸を磨くと、大正中期から昭和10年代半ばにかけて度々大蔵大臣として、さらに総理大臣として日本の国家経営に参画したのである。
*高橋是清の伝記をまとめた歴史学者、R.J.スメサーストは、次のように述べている。「高橋は、封建制末期の古典教育にも、明治期の国家教育にもとらわれない価値観を持つと共に、若いときから日本語と英語の両方で、読み、話し、学ぶことに飽くなき欲求を持っていた。高橋は、下級武士の出であり、また、上下世代の中間の時代に生まれ、さらには幼少期と10代に尋常でない経験をし、しかも社交的で屈託のない性格だったために、教条主義的な理論にとらわれず広い視野で問題に取り組むプラグマティスト的な考え方と、私心のない態度、すなわち、自分の属している社会を内側と外側から同時に観察する能力を磨く機会にめぐまれた。これは、第二次大戦前の日本の指導者の中にあっては特異なことであった。」(R.J.スメサースト(鎮目雅人他訳)『高橋是清―日本のケインズ その生涯と思想』東洋経済新報社、2010、pp379-380)

彼は、20代後半に特許・商標法策定に係ったのをはじめ、農業専門学校長、ペルーのカラワクラ銀山経営、日銀建築工事事務所支配人等、さまざまな仕事に携わった。殆どが、日本人としてはじめて取り組む仕事だったが、彼は斬新な発想と私心のない仕事ぶりで大きな成果を挙げた。日露戦争期には、日銀副総裁のまま財務官として外債募集に携わり、戦費調達という国運の懸った難題を解決し、一躍内外にその名を高めた。さらに金融恐慌、昭和恐慌に際しては蔵相として、通説と異なる大胆な対策を採用し、世界大不況からいち早く脱却するという画期的な成果を挙げている。そして、1930年代に進行する軍国主義と国際的な孤立化に警鐘を鳴らし、軍部に対抗した数少ない英米協調派であった。


高橋と同世代の政治家だった尾崎行雄は、政治的に対立する立場にあった高橋について次のように述べている。「(高橋の)並はずれた前半生のために、なに事にも形式ばったことの好きな日本人には、高橋君のような性格は、見つけたくてもなかなか見つからないものだ。だから彼は、おそらく、世間の喝采を受けても有頂天になるまいし、反対に非難をこうむっても、びくともするものではない。こうした性格なので、後には帝国の困難な財政経済を背負い、国宝的存在とすら言われた。」
この尾崎の高橋評は的確で鋭い。「形式ばったこと」が嫌いな合理主義者であり、しかも「世間の喝采を受けても有頂天にならず、非難を被ってもびくともしない」いう彼の資質は、昭和前期日本が直面していた財政的な困難と大衆迎合的な政党政治の混迷に対峙し、成果を出していくために必要不可欠だったといえる。
*尾崎行雄『咢堂回顧録(下)』雄鶏社、1952、p199。

このような「特異な日本の指導者」を創りだした背景を辿ってみる。その第一が養祖母の高橋喜代子に養育された幼少期である。
13歳になった高橋が、横浜の外人居留地で学んだ英語力を磨くためにアメリカに旅立つ時、養祖母は、餞別として一振りの短刀を渡した。「男は名を惜しむことが第一だ。義のためや、恥を掻いたら、死なねばならぬことがあるかもしれぬ、その万一のために授けるのです」と諭し、切腹の方法まで教えていた。高橋は、はじめての、しかも言葉の不自由な異郷で生じたさまざまな難問―その一つが強制労働から逃れることだった―に対して、怯むことなく正面から向き合い解決法を探り出すことができた。常に高橋の言行の背後にあった覚悟を示唆する挿話である。
80歳になった高橋は、「財政と家庭」という対談のなかで、「子供には小さいときから『恥を知る』ということを教えたいと思います。子供の三つ四つは、傍から見れば何も判らないだろうと思うが、実は親のすること、兄弟達のすること、実によく見ているのです。よいことも悪いことも、皆知るのはこの時代です」と述べていた。
*高橋是清『高橋是清自伝(上)』(中公文庫)、p38、および高橋是清『随想録』(中公クラシックス)、p159。
自伝の中に、横浜から貨物船に乗り、アメリカに向かった時の記述がある。「子供の癖に一列ボタンのフロックコート、形紙で拵えた帽子には白い布片の日よけが垂れていた。・・・靴は婦人用の絹製古靴」といった具合で、すべて横浜居留地で手に入れた中古品を子供用に仕立て直したものだった。髷は、養祖母が切りとって散切り頭、鞄には切腹用の短刀、というまことに奇妙な格好で、彼の、波乱万丈の人生を象徴するかのような門出であった。さらに養祖母喜代子の人生も波瀾万丈であり、しばしば訪れた難局に節を貫いた女丈夫であった。詳しくは、自伝(上)、pp306-310.

高橋は、幼児期に観音経の敬虔な信者であった養祖母から信仰心を植えつけられており、齢とともに一種の固い信念となっていった。そして、成人になって遭遇する幾多の変遷浮沈に対しても、「存外平然としていることが出来るようになったのではないかと思う」と回顧し、「祖母が観音像を守り神として、身につけて離さなかったのを受け継いでいるので、それを特に霊の目標としているわけである」と記している。仏像の収集家であり、仏像については一家言もっていた。このような養祖母の影響もあって、彼は、幼少の頃から楽天家だと人からいわれ、何事にも挫けないで取り組む性質だった。
*高橋是清『随想録』Pp141-142)幼少時に、これも喜代子が話をつけて奉公することになった大崎猿町の仙台藩菩提所の寿昌寺で、葬式の後で死人を埋葬する手伝いをしていた。その影響で、「私は死人を恰も自分の友達であり、かつ尊ぶべきもののように感ずるに至った。・・・暗くなった夜中に、葬式が来ると、恰も兄弟が、親しい友達でも迎えるような温かい愉快な気分を以て対したのであった」と述べている。

高橋は、彼が活躍した同時代だけでなく歴史上の人物としても、数奇な出自をもつ「財政家」、それも「積極主義者」あるいは「放漫主義者」という観点から論じられてきた。しかしこの評価は一面的であり、彼の思想を単純化し教条主義的に捉えた結果に過ぎない。確かに高橋は、農商務省の同僚だった前田正名の影響もあって、若くして政府の第一義的な役割は、経済発展の促進であり、そのために伝統産業や地域産業を振興し、国民の生活水準を向上させなければならないという経済的信念を持ち、それは終生変わることはなかった。しかし、他方では物事の根本に迫り、その実態に即して柔軟で実効性を重視した発想をするプラグマティストでもあったのである。
*高橋が「放漫主義者」であったかどうか。R,J,スメサーストは次のように述べている。「この問いに対する答えは、インフレに対する考え方次第である。もしインフレはいつでも、そしてどのような水準であっても許容できず、たとえ国民所得の停滞とともにデフレが進行しているような状況であっても許容できないと考えるのであれば、高橋が1932年から1935年にかけてとった政策は放漫であったといえよう。しかしながら、もし高成長を実現するために穏やかなインフレが進行することは許容されうると考えるのであれば、その意味で大蔵大臣が放漫な政策をとることは推奨されるであろう。」(R.J.スメサースト、前出、p333)

2・日露戦争の戦費調達とその教訓
1904年2月、旅順港のロシア艦隊に対する奇襲攻撃で日露戦争がはじまった。開戦直後の欧米諸国では、「豪胆な子供が力の強い巨人に飛びかかった」といった見方が多く、ロシアと同盟関係にあったフランスのデルカッセル外相は、開戦直前まで、アジア新興国日本がヨーロッパの大国ロシアに戦いを挑むはずはないとみなし、日露間の和解に努めていた。日本の同盟国であったイギリスでも、外交専門家達は、戦況が日本に不利になる事態を想定して自国の対策を協議していたのである。また、日本軍の指導者も、最初の先制攻撃については周到な準備をしていたが、戦争全体の計画を立てていたわけではなかった。彼等は当面の小さな作戦目標を達成すると、次に新しい目標を立て、その実現をめざすやり方で進んだのである。
*横手慎二『日露戦争史』(中公新書)、2005、pp113-161.なお、松元崇は、日清戦争後の講和条件に際して、当時の日本指導者の国防に対する見解の違いについて次のように指摘している。「(松方正義は)遼東半島割譲よりも賠償獲得を優先すべきとしたのを、大陸での拠点確保が必要とする伊藤首相と陸奥外相が押し切ったのであった。その結果が三国干渉になった・・・明治30年9月、首相兼蔵相だった松方正義は『国民新聞』紙上に、国防問題をただちに軍備拡張問題と同一視する風潮は極めて危険であると批判し、通商を拡大し、国際的な相互依存関係を深めて国富を増進させることこそ安全保障に貢献するゆえんである主張している、それは山県有朋に対する歯に衣着せぬ批判であった。」(松元崇、『恐慌に立ち向かった男高橋是清』(中公文庫)pp151-152)

当初想定された戦費は、4億5千万円で戦争直前の1903年の歳入額2億6000万円の1・7倍の規模だった。このうち軍艦など軍備購入に必要な正貨1億円は外国から借入れと想定されていたのである。実際に掛った戦費は17億円超と大きく膨れ上がり、外貨調達の規模は当初目標の8倍になった。大増税が行われ、なお不足の部分が外国からの借金となった。開戦翌々月の1904年4月各税の一律増税とたばこ専売制の導入という第一次非常特別措置が、続いて翌年には更なる増税と新税の導入をした第二次非常時特別措置が行われ、1億4400万円の増収が図られた。しかも、これらの非常特別税は、「平和復ニ至リタルトキハソノ翌年末日限リ」で廃止することとされていたが、ロシアから賠償をとれなかったために戦後も継続され、国民の強い不満を招くことになったのである。
松元崇は次のように述べている。「『明治100年』を生きた老人たちが第二次大戦中や敗戦後と比べても『(三国干渉による)臥薪嘗胆と日露戦争の時期も同じくらい苦しかった』と述べる状況となったのである。そうして戦われた日露戦争が、財政的に見れば負け戦だったことから、日露戦争後もわが国の経済・財政にとっては厳しい時代が続くことになった。不況が慢性化し、公債残高は、明治29年度末の3億5100万円が、明治36年度末には5億3600万円となり、日露戦争後には20億円を超えるまでになったのである。」
*松元崇、前出、pp33-34。およびp163.この厳しい借金財政を一挙に解決したのが第一次世界大戦中の戦時景気であった。まさに天恵だったのであり、1914年時点で破産寸前の債務国だった日本は、大戦末期にはアメリカに次ぐ世界第二位の債権国になったのである。

松方正義、井上馨等国家財政に責任を持つ元老達は、この戦費調達のための外債募集は多難な仕事であり、この任務を遂行できる人物は、日銀副総裁の高橋を措いていないと考えていたのである。
こうして高橋は、日銀副総裁のまま財務官として1904年から1907年にかけてロンドン、ニューヨーク、ヨーロッパ大陸を駆け巡り外債発行に携わった。彼は、この仕事を通じて、アメリカのユダヤ系投資銀行家として著名なジェイコブ・シフと知り合い生涯の友となった。さらにイギリスのアーネスト・カッセル、アルフレッド・ロスチャイルドなども高橋の熱心な協力者であった。高橋は、これら投資銀行家達との付き合いのなかで、国際金融界に飛び交う政治経済情報、海外借入れの際に要求される財政の規律と健全性など実践的知識を得ただけでなく、貴重な海外人脈を作り上げたのである。さらに経済発展をめざしている日本にとって英米との協調が不可欠であること、日本という国家のあり方、とりわけ軍事優先政策のもつ危険性、経済成長の成果を労働者階級と分ちあうことの重要性など広い分野について、当時世界で活躍していたトップクラスの投資銀行家達と真剣な意見交換を繰り返した。日本の国家としての優先順位は何かという、国家経営の基本問題を、外部から客観的に自分の目で見てかつ考える貴重な機会に恵まれたのである。
高橋は、日本が、資金、近代技術、希少天然資源を全面的に英米に依存しているという冷厳な事実を改めて思い知らされた。高橋は、アメリカの七分の一、イギリスやフランスの三分の一の経済規模しか持たない日本という国は、「列強」の一員にふさわしいことを証明したいという願望のためだけに、欧米諸国にいたずらに追随すべきではないと考えていた。民族主義者だった彼は、日本の国際的地位を内外に知らしめるよりも経済発展を優先させるべきであるとの結論に至ったのである。ともかく日露戦争に要した費用のおおよそ半分をイギリス、アメリカ、ドイツおよびフランスの資本家からの借り入れており、その返済のために増税と、長い時間が必要だったのである。彼は、英米両国は日本が最も恩恵を受けた同盟国であることを学んだのであり、この認識は生涯変わらなかった。
*R,J,スメサースト、前出、p305.
  
さて困難が予想された外債発行に成功したことで、高橋の評価がガラリと変わり一気に政財界の頂点に上り詰めることとなる。
しかし、日本は、戦争が終わった翌年には「帝国国防方針」を策定し、陸海軍が競って軍事力の増強に乗り出した。国債が増発されて、第一次大戦までの10年間の日本は借金まみれの状態だったのである。高橋は、こうした状態が国家として如何に危険であるかを理解しており、ことあるごとに財政引締めを提唱した。しかし、高橋が学んだ教訓は正当に評価されることはなかったのであり、彼の提言は歴史のなかに埋没したのである。
日露戦争によって、日本は東アジアの強国となった。1910年に韓国を併合し、さらに中国に対して、満州の権益に特別の配慮を求めるようになった。1915年には日本は中国の袁世凱政権に「二十一ヶ条要求」を突き付け、イギリスが近隣で戦っている間に中国に帝国主義的侵略をしようとしたのである。日本の動きに両国は激しく反発したが、実力によって日本の行動を阻止することはできなかった。日本の動きは、欧米諸国からも批判を招いたが、彼等もその動きを阻止することはできなかったのである。こうして日本は、高橋が外債発行の仕事を通じてたどりついた、英米との協調路線とは異なる方向を、軍事的な視点から独善的に選択していったのである。
*横手慎二、前出、pp198-201。

高橋は1913年、日銀総裁就任後1年半が経とうとしていた時、山本権兵衛内閣の大蔵大臣としてはじめて入閣した。生粋の海軍軍人であった山本は、その時まで高橋とは顔を知っているくらいの関係であった。彼は、山本から突然に呼び出され、「自分は内閣組織の大命を拝した。一つ大蔵大臣になってくれ」と云われて、ほぼ即答に近い形で引き受けた。
この時のことを高橋は次のように語っている。「山本は『自分は日露戦争の後にどうも財政が大事だと考へ、経済の事で一体民間でどういう人が良いかと云うことを松方公に聞いた。君は国家のためならば、己を空しうして尽くすと云う事をきいた。君を大蔵大臣にすると云っても、君の手腕を第一に頼りにすると言うのじゃない。君の精神を頼りにして頼むんだ』といった。そこで私(高橋)は、『己を空しうして国家のために尽くすと云う精神に至っては、私は決して人後に落ちぬ。手腕を問はぬと云うことであるならば宜しい、お受けしよう』と云うことになって、すぐその場で以てわずか五分間ぐらいで決まってしまった。」
*高橋、『随想録』、pp21-22。この時、高橋の大蔵大臣就任は、彼の周辺にいた人たちにとって想定外だった。高橋の応諾は難航する、説得しなければならないと待ち構えていたのである。随想録に次のような一節がある。「梯子段を降りて来ると、今の牧野内府(内大臣牧野伸顕)と奥田義人(山本内閣の文相)が下の座敷から出て来て『どうだった』と云ふ。『かう言う訳だから宜しく』といふと牧野、奥田の二人が『実は、我々は恐らく君は受けまい、受けなければ我々二人でここで待ち構経ていて説得する積りだった』と云って笑い話になった。」(随想録、p22)

1913年2月に発足した山本内閣は、軍部大臣現役制を止め、枢密院の定数を減らす、文官任用制を改め政党人が事務レベルの高官につけるよう官僚制を民主的な統制の下におく等、当時懸案となっていた改革を前進させたのである。しかし、海軍の汚職事件(シーメンス社が装備品の納入のために海軍士官を買収した事件)に巻き込まれ、総辞職し14ヵ月の短命内閣になった。そして「政治は苦手」と自らを評していた高橋は、はじめての蔵相体験で多くのことを学んだ。生産的な支出や借入を重視する一方で、非生産的な支出や借入れには反対した。政府支出を抑制し、地方自治体や企業が海外で資金調達することは奨励した。また、彼が、予算の編成過程で取り組んだのは、財政の立て直しのための政府の倹約と合理化であった。その一つが官僚機構の規模の縮小と、年功序列でなく業績に基づく昇進システムを導入することであり、この具体的で実践的な政策の中に合理主義者、高橋の特徴が読みとれる。
*この時の高橋の財政方針は「積極主義」と称された。低金利、生産的な目的での外資導入、需要と事業投資を喚起するための減税のほか、港湾整備、鉄道建設、治水事業などの公共事業への財政資金の投入によって経済成長を刺激する。この政策スタンスは、以後基本的に変わることはなかった。これに対し、同時代に蔵相を務めた山本達雄、若槻礼次郎等は、過度な支出、特に軍事費の拡大、外資導入、低金利が経済を過熱させ、インフレにつながることを危惧する消極主義であった。景気の停滞や倒産は「金本位制の自動調整メカニズム」のもとで安泰に過ごすための代償であると考えていたのである。この財政における積極策と消極策は、1930年代の高橋と井上準之助との間で再現される。

3・昭和恐慌の克服と「高橋財政」
1931年12月12日、民政党若槻内閣が崩壊すると、翌日に政友会の犬養毅が内閣を組閣し、高橋は大蔵大臣に就任した。彼は77歳の高齢に達しており、体調がすぐれない中での5度目の大蔵大臣ポストであった。前年から進められた金輸出解禁と緊縮財政のため、日本経済は昭和恐慌の真只中であり、物価は下落し失業者が増加、農業は農産物価格の下落によって打撃を受けており、海外でも世界大恐慌の暗雲が広がりつつあった。高橋は、この深刻な状況に対し、すぐに前内閣で井上蔵相が進めてきた緊縮財政を方向転換することを決める。金輸出を禁止し、金本位制からの離脱したのである。
後に「高橋財政」と称される昭和恐慌対策の骨子は、①金利を順次引き下げて、金融の融通を図り、公債発行を便利にし、株価の低落を抑制すること、②外国為替相場の低下を放任することによって輸出の回復を図ること、および③財政支出の増加によって、直接経済を刺激するという三つの柱からなっていた。
*R.J.スメサーストは、この様な高橋の思考様式がまさにケインズの視点だった、と主張している。(R.J.スメサースト、前出、p300)

因みに、イギリスは、1931年9月に金本位制を離脱しており、デンマーク、スウェーデン、ノルウェイもイギリスに従っていた。結局、内閣の交代で登場した高橋は1932年1月、金輸出再禁止をおこなったのである。高橋は、1932年7月井上と金本位制で論戦を行ったとき、自説をこう述べている。「金本位が国民の、あるいは国家の存立にどうしても必要なものだというご意見(井上)のようだが、それは正しいとしても、金本位を維持するものは国力であり、無理な解禁を行ったことは間違いである。ヨーロッパの新興国が金本位を採用したのは、外国資本の導入のために必要だったのである。日本と中国の貿易は、日本は金本位、中国は銀本位だが別に不便は感じられない。金本位にあらずんば国が立たぬではないかと云うことは、これは間違った話である。」
*中村隆英『昭和恐慌と経済政策』(講談社学術文庫)、pp165-171。イギリスが離脱した段階で、日本も追随する機会医が到来したかに見えたが、井上蔵相は断固として拒絶した。「彼は、駆け出しの政治的経歴をこの試みにかけており、彼自身の見立てによれば、自ら誘導した不況の嵐を日本が乗り切ったこの時期に、この勝負から下りる理由はどこにもなかった。しかし、次なる衝撃への備えは持ち合わせていなかった。」(R,J,スメサースト、前出、p315)

高橋は、「新平価解禁派」とも言われたが、少数派であり、石橋湛山、高橋亀吉等民間エコノミストが支持していたが、財界主流の意見とは食い違っていたのである。当時の主流は「清算主義」、つまり企業の整理・淘汰を進め過剰設備や不良債権を解消し、さらに金本位制への復帰を図ることでしか日本経済の再生の道はないとする考え方であり、いわゆる「旧平価解禁派」といわれていた。
ただ注意すべき点は、高橋も当時の日本経済に設備過剰や不良債権などいわゆる「構造問題」が存在していることは認めており、この点では「旧平価解禁派」と何ら変わらなかったことである。「新平価解禁派」は、物価などマクロ経済の安定のためにはマクロ経済政策を、構造問題の解決には構造改革をそれぞれ割り当てるべきだとし、さらにデフレ下では前者を優先しつつ後者を進めるべきであるという経済政策の優先順位についての考え方の違いであった。
*岩田規久男『昭和恐慌の研究』東洋経済新報社、2004,pp278―279。

前任者の井上準之助は、旧平価での金本位制復帰をなによりも優先した。彼は、金本位制の仕組みのもとでは、景気の過熱による物価騰貴や不況による物価下落は、金の流出入を通じて自動的に調整されるという機能を、教条主義的に長期低迷する日本経済に当てはめることで、不況からの脱出が可能になると考えていたのである。プラグマティストでもあった高橋は逆であった。理論はあくまで道具に過ぎない。経済のどこが問題なのかを徹底的に確かめ、それに最適な手段を探し、それを適用しようと努力を続けた。もちろん経済は機械ではなく一つのシステムであり、全体の目標が明確でなければならないが、この点についても高橋の立場は明確であった。
*吉川は、金本位制がその一部となる新古典派理論とケインズ理論の違いを次のような比喩を使って説明している。「(新古典派理論)が『風や波ではなく、潮の満干を律する法則』つまり『経済の長期的な傾向に関する法則』を対象としたのに対し、ケインズは『風や波』すなわち『短期の問題』を鋭く分析した。たしかに台風の最中に大海に浮かぶ船の立場からすれば、問題は風や波であろう。・・・新古典派理論は、『価格の経済学』である。我々の住む市場経済の調整は全て価格の変化を通じて行われる。これに対してケインズは価格、とりわけ名目賃金の変化は極めて緩慢であることを強調した。・・・価格の調整を素通りして数量(需要)が数量(産出量)を直接決定する理論を展開したのである。」(吉川洋『ケインズ』(ちくま新書)1995、pp181-183)

日本は「高橋財政」によって昭和恐慌からの脱出に成功していく。1931年12月から36年2月までの高橋財政期に、2%の緩やかなインフレの下で、実質経済成長率7・2%と、その直前の昭和恐慌期(1930-1931・11)の10倍となり株価は70%、地価の下落も止まって1%上昇したのである。1920年代の長期低迷基と比べても抜群の成果を上げた。岩田規久男は、経済学者の視点から、この成功の要因が、金本位制からの離脱と日本銀行による国債引き受けであった、と指摘している。
因みに、1929年のニューヨーク株式大暴落からはじまったアメリカの長期不況はどうだったのか。フランクリンD,ルーズヴェルトが大統領に就任したのが1933年3月、彼はニューディール政策(その根幹をなしたのが農業調整法と全国産業復興法の制定)の実行を進める一方で1937年には「財政支出を大幅に削減し、本格的な財政均衡政策へと舵を切っている。」その結果、38年には再び厳しい景気後退に見舞われることになった。ルーズヴェルト大統領が、ケインズ的な財政政策をとるようになるのは、二期目の1938年4月の景気回復計画からで、それまでは米国は、金本位制を離脱した1933年4月以降も均衡財政をめざしていたのである。

さらに1920年代から昭和恐慌に至る長期の不況、停滞で疲弊した農村救済問題も、当時政治的な焦点となっていた。高橋が実施した農村経済更生政策は、今日から見てもきわめて斬新でかつ具体的であった。即ち、財政による救済と相まって「農村漁村みずから奮起し」、「官民一致の協力により、統制ある組織的な農村経済更生の施設を樹立し、これが確実なる実行を期する」というものであった。その方針は土地の利用配分、労力の利用、農業生産統制、農産物の販売、肥料その他農業経営用品の供給改善、農業経営の改善、農業金融の改善、負債整理等々について、農村経済更生計画を樹立させ、これを実施することによって自力更生を図ろうとするものであった。
*高橋は、この頃にはF,W,テイラーが提唱していた、「サイエンチックマネージメント」という「能率増進」のための「科学経営法」について相当の知識を持っていた。彼の『科学的管理の諸原則(The Principles of Scientific Management)』は、1911年にアメリカで出版され、直ぐに日本に伝わっていたのである。当時の日本紡績業や電気機械の工場では、「時間動作研究」や「課業管理」などの手法を工場現場に適用する工夫をはじめていた。そして高橋も、この生産工場現場の能率増進の方法等について講演等で言及していたのである。(高橋、『随想集』、pp279-283).

さらに、農村のリーダーを旧来の地主から自作農中堅層に切り替えること、従来の肥料商や米穀商の力を抑制し、産業組合を中心とした経済厚生を図るなどの新しい方向が打ち出されたのである。しかし、これら高橋の新機軸は戦争で中断され、戦後になって本格的な開花を見ることになる。
*高橋も随想録のなかでこう述べている。「経済的の施設は一朝一夕にその効果を望めるものではない。少なくとも2年ぐらい経たなくては真の効果は挙げ得ないのである。私のやったことをいうのは可笑しいようだが、昭和6年暮れの金輸出再禁止以来とつて来た政策の効果というものが現れて来たのは漸く昭和8年の下半期頃からであった。しかし国際的にも国内的にもこういうむずかしい時世では個々の問題について目安は定めて置いても、一定不変の政策を押し進めていくことが出来ない場合が起り得るのである。」「経済難局に処するの途」と題して、昭和10年1月に執筆された文章である。(高橋是清『随想録』、pp194-195)

1937年に勃発した日中戦争によって日本の産業は、軍事産業化に向けて急傾斜していったのである。そして戦後につながる産業政策の雛形が登場したのもこの時期であった。「高橋財政」のもとで推進された産業政策は、円安と相俟って、化学肥料、人絹、工作機械をはじめ電気機械などの分野でも最新技術を導入した新しい産業が次々と登場した。不況脱出から次の成長に向かう新たな経済循環がはじまっていたのである。その裏には、高橋の革新的な産業政策思想があったのであり、「高橋財政」の成功に貢献したもう一つの要因である。中村隆英はこの時期を次のように意味づけている。「ようやく産業構造が高度化し、設備投資や建設投資が増加して、鉄鋼、セメント、機械類をはじめとする投資財が本格的に需要される時代が到来していたのである。戦争さえ起こらなかったならば、戦後にみられた設備投資を起爆剤とする経済成長が可能だったかもしれない。」実際に、この1931年以降の高橋財政の時期には、日本の近代産業の中で先行し1930年代半ばまでに最大の輸出商品に成長した綿織物は、「イギリス経済のエンジン」といわれ、約1世紀の長い間世界市場に君臨してきたランカシャー綿織物を追い越して、世界市場でトップの地位に躍り出ていたのである。
*中村、『昭和史Ⅰ』、pp171-172。綿織物は、イギリスの産業革命を導き、やがて世界市場を席巻したが、そのイギリス綿織物を追い越して世界トップの座についたのが日本綿織物であった。それは、高橋が、前田正名と共に構想した産業政策、つまり日本経済の発展のためには、軍事力と関連の深い重化学工業の育成ではなく、伝統産業や地域産業の振興と輸出産業化を優先すべきであるとする政策論が、決して机上の空論でなかったことの証明でもある。

4・マネジメント思想の先駆者
高橋は、私心のない客観的な立場に立って問題の根本に迫り、教条主義的な理論や通念にこだわることなく、自分で考え抜き状況から学びながら効きめのある解決策を探し出した。そして常に目的とそれに向けての道筋が意識されていた。これが、R.J.スメサーストがいうところのeclectic pragmatist(視野の広い目利きのプラグマティスト)の本領であり、彼の経済思想を特徴づけるのに、「積極主義」ではなく「管理された成長」という言葉を使った理由であった。
*因みに、中村隆英は、ケインズについて次のように述べている。「ケインズは自説を大きく変えることがしばしばあったためによく悪口をいわれたようだ。そのときケインズは環境が変わったからには政策も変わるのは当たり前だ、と考えていたのだろうと思う。ケインズは優れた経済学者であったが、また並はずれた直観の持ち主であった。政策を主張するに当って、政策当局者は理論的な分析のほかに熟練した臨床医のような直観力をそなえていなければならない。」(中村隆英『昭和恐慌と経済政策』(講談社学術文庫)、p20)

高橋は、随想録で次のように述べている。「私がよく根本根本ということを言って、原内閣の時代にも『君はいつも根本とか国家とかいう事ばかり言う』と云われたけれども、それがちょうど、農商務省で前田君に会った時に感じた私の考えから、終始ずっと進んで来よる。それで何か一つ計画を立てるのでも、根本はどうかということを私はいつも考える。これを行った結果はどうなる、病の根本はどうであると云う風に、根本から考えていく。而してこれを行うに就いて、国家がどうなるという事を考える。だから、今ちょっと事柄が起こった、どうこれを処置したらいいかという場合、一時的なことは考えない。起これば起こった原因から調べていかねばならぬ。」
*高橋是清『随想録』(中公クラシックス)、pp223-224。前田正名は、高橋より4歳年上で薩摩出身、幼少から長崎で洋学を学び貿易に携わる。明治2年、政府の命によりフランスに留学し8年間同地で産業政策、とりわけ農業政策を学び帰国した。高橋は、同僚の前田を学ぶべきところが多い「誠実な精神家」として尊敬し私淑するようになった、しかし、前田の理解者だった大久保利通が暗殺され、さらに大隈重信も政権から離れていくと、彼の農業および関連産業の重要性を説く政策思想の後ろ盾がいなくなってしまう。前田は1885年に「興業意見」をまとめたが、大蔵卿の松方正義が勧めていた政策と見解が完全に異なっていた。こうして前田は主流から外され、地方の開発事業などに携わり生涯を終える。貴族院議員にも選出されている。

さらに高橋は、かつて農商務省時代に前田正名から学んだことだが、これらの解決法は市場情報に依存しつつ現場で意思決定するのが効果的であり成果につながるということを、これも自らの経験を通じて確かめていたのである。彼は、この手法で、はじめて取り組んだ日銀本店の新築工事を見事に成功させたことを、ある講話の中で語っている。
ペルー銀山事業で失敗して失業の身だった高橋に声が掛り、1892年に日銀本店の新築工事に係ることになった。工事事務所の支配人として途中から参画したが、当時、工期が1年以上遅れ、経費の大幅増加、しかも当初の設計を勝手に変更するなど問題が山積していた。彼の仕事は、工事を計画通りに立て直し完成させることであった。この時37歳、現場に出かけ「丁稚小僧から始める心持で、毎日早くから事務所に出ては、関係者から直接話を聞いたり自分でも研究した。」曖昧だった下請け工事分担・責任を明確にし、材料発注の計画化と納期短縮、工期短縮のためのインセンティブの導入など斬新な工夫を入れ込んだ。設計を元に戻し、予定通りに完工させたのである。この手腕が当時の川田日銀総裁に認められ、1893年に日本銀行の正規職員に採用され、新設の西部支店長に任命されたのである。
*高橋是清『随想録』(中公クラシックス)、pp233-238.

高橋は、その生涯を通じて幾回となく、当時の日本人の中で誰も経験したことのない困難な仕事に挑戦し成功を収めた。しかし、それだけではない。R,J,スメサーストは、「高橋は政治と経済について、思想家(an economic and political thinker)としても時代に先行していた」と評価している。高橋は、国家がその目標に向けて効果的に機能するために何が大切なのか。これら国家のあり方とその諸原則は何か、と考え抜いた。前例のない問題についてその根本に迫り解決策を考え抜く過程で育まれ、練り上げられた経験や知識を整理し、さらにそれらを活用したのである。
高橋が活躍した当時、「マネジメント」という19世紀末のアメリカに登場した概念は、生産現場の仕事に適用される諸原則という限定的な性格を帯びていた。
しかし、国家総力戦となった第二次大戦の経験を経て、アメリカで体系化された「マネジメント」は、単に工場労働のみならず広く組織の生産性を向上させる概念に進化していたのである。ドラッカーは、このマネジメントを「成果を生み出すために『既存』の知識をいかに有効に適用するかを知るための知識」であると定義している。「知識」とは、効用としての知識、すなわち社会的・経済的成果を実現するための手段としての知識である。

これまで様々な視点から高橋の足跡、業績について見てきたが、彼の思想、そして行動を、ここでいう「マネジメント」の概念で解釈することは容易である。彼はマネジメントの核心の部分に触れていたのであり、そこに彼が大きな足跡を残した理由があったということができる。
*この、第二次大戦後のマネジメントの体系化に大きな貢献をしたP,F,ドラッカーは、マネジメントそのものは、大昔からいたるところに存在していたのであり、「最も優れた経営者は誰かとよく訊かれるが、いつも『いまだに壊れることなく建っている世界最初のピラミッドを4000年前にはじめて構想し、設計し、建設した人物である』と答える」と述べていた。(P,F,ドラッカー(上田惇生他訳)『ポスト資本主義社会』ダイヤモンド社、1993、pp71-95)

以上、高橋について、その経歴と仕事を中心にして論じてきたが、最後に彼の業績をどのように評価すべきか、という点について述べ締めくくりとしたい。これまで高橋は、大正期から昭和前期に大蔵大臣として活躍した積極財政主義者として評価され、「高橋財政」という表現も定着している。しかし、この評価は一面的である。高橋は、その活躍した時間の長さ、浮沈の激しい仕事経験とその広がり、さまざまな分野で上げた画期的な成果と、どの点から見ても特筆すべき足跡を残している。そしてこの多彩な活動を貫く一つの軸が、今日いうところのマネジメントの思想に他ならなかった、ということができる。しかし、今日においても、日本ではマネジメントは理解しにくい多義的な概念である。まして戦前期においてその実践者は例外的な存在だったのであり、体系的な理解者はいなかったのである。
*R.J.スメサーストも、高橋が、1930年頃までに財政家としてとるべき重要な原則を会得していた、と述べている。そして、高橋以外に当時、さらに戦後のケインズ革命の時期まで、日本の財界人や政治家は、誰一人としてこれら諸原則の全体としての意味を理解できなかっただろう、と指摘している。ただ、彼は、この高橋の思想をケインズに関連付けたのであり、マネジメントの問題意識は欠落していた。(R,J,スメサースト、前出、pp378-379)

高橋是清は、日本におけるマネジメントの思想を実践した先駆的な人物として再評価されなければならない。この偉大な先人を正当に評価すること、そして教訓として今日の状況にどのように取り入れていくのかが問われている。これこそが、現在進行しはじめた長期デフレ、経済停滞からの脱却をめざす経済再生の戦略において取り組むべき優先課題の一つである、といえるのではなかろうか。

主要参考文献
1・高橋是清(上塚司編)『高橋是清自伝(上・下)』(中公文庫)、1976。
2・高橋是清『随想録』(中公クラシックスJ42)、2010。
3・Richard J, Smethurst, TAKAHASHI KOREKIYO, Japan’sKeynes, Harvard East Asian Monographs 2007.(鎮目雅人他訳『高橋是清』東洋経済新報社、2010)
4・大島清『高橋是清』(中公新書)、1969。
5・松元崇『恐慌に立ち向かった男 高橋是清』(中公文庫)、2012。
6・中村隆英『昭和史Ⅰ』東洋経済新報社、1993。
7・中村隆英『昭和恐慌と経済政策』(講談社学術文庫)、1994。
8・岩田規久男編著『昭和恐慌の研究』東洋経済新報社、2004。
9・吉川洋『ケインズ』(ちくま新書)、1995。
11・Peter,F, Drucker, The Post-Capitalist Society、Harper business,1993.
12・横手慎二『日露戦争史』(中公新書)、2005。
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2013年11月17日

'第二幕'入りのアベノミクスと、安倍政治にみる危うさ - 林川眞善

はじめに

― 日本はなんらかの過激な手段(radical measures , of some sort)を間違いなく必要としていた。 
( 10月15日付Financial Times )  

三本の矢から成る「アベノミクス」は奇妙なほど計画通りに進んでいます。超円高は是正され、停滞していた株価は回復してきました。今朝14日、政府の発表では第3四半期の実質成長率は年率換算で1.9%、3四半期連続上昇と、市場の予想を上回るものとなっています。まさに日本再浮上への助走を感じさせられる処です。それだけに、この助走を本格的な持続可能な経済としていく事がこれからの問題であり、その意味でアベノミクスは、これまでの助走を第1幕とすると、これからは第2幕の、いうなれば本番を迎えることになったという事になります。

本番となるステージとは、経済活動をより自由に、そして持続的かつ創造的なものとしていく事への回答を創りだす‘場’と言うものです。それは、コロンビア大学のJeffrey Sachsのいう、経済の目的、つまり Efficiency(効率:成長)、 Fairness(機会の公平:雇用機会の拡大)、Sustainability(持続可能な経済)、の達成を目指すことと言えそうです。

これが、リアリステイックには、新規参入を規制している環境を解消し、競争環境を作っていく「規制の緩和、撤廃を進め、産業の再編等、変革をすすめていくこと」が、まず第一のタスクであり、そこでは前例にとらわれない動き(注)が不可避ともなる処です。そして、アベノミクスの成長戦略が目指す‘グローバル経済で勝つ’事への手立てとしては、「TPP協定の締結を通じて日本経済のグローバル化対応を進めていく」事と言える処です。つまり、‘国を拓き’、‘国を開く’舞台という事になります。

もとより、そうした政策展開を担保していく為にも、リフレ政策と公的債務が齎す長期的リスクノバランスをいかに図っていくか、つまりは「財政再建」が基本問題となる処です。
その点では安倍首相には、それに向けた歳出削減に係る覚悟の如何が求められるというものですが、そこでの本丸となるのが社会保障費の合理化にあり、という事になる処です。

そこで、以下‘本番’での課題、そして、日本経済を取り巻く環境の変化とも併せ、考察することとします。

(注)前例にとらわれない政策行動
アベノミクスの特徴は従来とは根本的に異なる大胆な経済政策を表明して、デフレ脱却を目指す斬新な方法にあると言うもので、よく云う前例にとらわれない対応でその‘解’を求める政策姿勢であり、それは長年のデフレ下にあって、固定化された経済通念の大転換を促すプロセスとも言える処です。アベノミクスの異例な展開の一つとして挙げられる動きが、政労使会議 です。
9月20日に初会合があり、10月17日には2度目の会議が首相官邸で開かれています。
これは、経済の好循環実現に向けた政労使三者による政策会議で、その趣旨は、企業は賃上げ、政府は婦人減税や失業者への就業支援、労働者は雇用の流動性を高める改革の「三方一両損」で賃上げが進む好循環を生み出すとの発想の下に行われているものです。当初、労使で決める賃金・雇用に政府が介入するのは異例であり、なぜに政府が?といぶかる向きがありましたが、いまや経営側も政府要請に応えるべく腰を上げつつある処です。

この手法は1982年11月24日、オランダの政労使が纏めた「ワッセナー合意」(注)の日本版というものです。つまり、1982年、当時、失業率の悪化などに直面していたオランダで政府と経営者、労働組合の代表3者が話し合い賃金上昇の抑制などを取り決めた協定で、ハーグ郊外のワッセナーで結んだことからこう呼ばれているものです。結果、パート労働者も増加、失業率も低下、成長率はプラスに転じ、99年には財政の黒字化を達成したのです。


1.国を拓くー 構造改革の推進

再び規制改革は成長戦略の一丁目一番地

成長戦略の一丁目一番地は規制改革とは、安倍首相の予てからの指摘です。そうした意を受けて 内閣府の規制改革会議では規制改革の実施について検討され提言がされてきています。しかし、アベノミクスの三本の矢のうち、金融・財政政策と比べて、成長戦略の柱である規制改革は必ずしも順調には動いてはいません。何故か?国際基督教大学客員教授の矢代尚宏氏は、規制改革が進みがたいのは、対象となる少数者の既得権と比べて、経済全体の利益は大きいものの、一人あたりの利益は逆に小さいためで、その差が、規制を維持するための政治活動や献金の差になることは、TPPの場合と同じことだ、というのです。
つまり、新規参入を抑制する規制の改革は、輸入品にかかる高関税を撤廃する貿易自由化と同じ構図にあると言うものです。

例えば、アベノミクスでは農業を成長産業と位置付けています。が、なかなか進む様子にはありません。それは、専業農家(農業所得が半分以上の農家)の所得補償の為に、高水準での安定的なコメ価格の維持を図る減反という規制があり、この行政に絡む関係組織が減反規制の廃止を認めないと言う事情があるためです。いまコメが何故778%もの高関税で守られるかと言えばそうした保護行政があるためなのです。
仮にコメの減反を廃止し、生産量に応じた補助金に置き換えれば専業農家の生産は増え、単位コストは低下し、結果対外競争力をつけたコメは輸出産業として発展するのです。

つまり、現状に合わなくなっている不合理なこうした規制を改廃していく事で、農業も成長産業として発展する余地は大きいと言うものです。それこそは産業の構造改革であり、‘産業を拓く’、という事です。

競争制限的実情の情報公開を

現在、内閣府の規制改革会議では、6月の第一次答申に続き、農業、健康・医療、雇用、操業・IT等、貿易・投資等の5つのワーキング・グループで当該分野での規制改革の可能性について検討が進められている由で、realisticな提言を期待するものです。が、この際は、現行規制で誰がどのように守られているのか、その実態についての詳細な情報の公開を進めること、また、競争制限的行為の実態の調査を行い、その実情の公開をも進める、ことを、求めたいと思います。こうした活動を通じることで、国民の理解と支持を得て規制改革をダイナミックに進めていく事が可能になると考える次第です。これこそはアベノミクスで期待される成長戦略であり、新たな環境に応えていく産業構造への改革シナリオに結びつく処と言えるのです。

尚ここで銘記されるべきは、アベノミクスの本番、つまり「成長戦略と規制改革」に取り組みにあたっては、イノベーション(remaking of Japan )、制度間競争、意思決定機構の見直し(評価基準の導入)、がキーワードとなるのでしょうが、成長期の議論ではなく、remaking期の議論は、ノリシロがないためにより正確さが必要と思料されるからです。
つまりは、何のためにと、いう目標、そして、どういった状態になれば達成したと言えるのか(注)、そういった評価基準がきちんと議論されないと、何処に行き着くのかはっきりしないまま漂流し続けることになりかねません。これが「失敗の20年」だったのでは、と思う処です。上述規制改革会議での議論に注文を付けるのもかかる趣旨からというものです。
 

2.国を開く -TPPはグローバル戦略の核に

いまや規制改革と同列イッシューとして考えられるのがTPP協定の締結です。日本はこの7月、TPP交渉に参加しました。言い換えれば、これは日本が世界の自由化戦線に復帰したと言うことであり、それは、アベノミクスで言う「グローバル経済で勝つ」に向けた戦略対応というものです。 そして、その締結に向けたプロセスは対外的、対内的に競争環境を調整、整備するものであり、まさに国内産業の構造改革と軌を一にする処となるのです。とすれば、日本経済を将来的に持続可能なものとしていく為に、グローバル市場との提携を深めていく、という事であり、日本経済という‘場’を対外的にオープンにしていくこと(国を開く)を不可避とする事になるのです。と、同時にそれに応え得る政策展開が求められていくという事になるのです。

いま日本の出番です

処で、日本を取り巻くグローバル経済の環境は、と言うと、これまでグローバル化の推進、とりわけTPPの成功を通じてアジア太平洋諸国との連携強化を図るべくTPPを主導し、‘アジアへの旋回’を外交戦略として来た米国が、ここに至って、アメリカはもはや世界の警察官たりえない、とか、内政の混乱からオバマ大統領がこれまで主導してきた各種国際会議への出席を取りやめる等、急速に内向きに転じてきています。(`The gated globe’, The Economist,Oct.12 )

その結果、世界はリアリステイックに言えば、これまで米国が誇ってきた世界における地位の低下を招来する一方で、中国やロシア等、敵対していた国が相対的に浮上してくると言った状況にある処です。そしてそうした大国に挟まれ戸惑うASEANがそこにあると言うものです。つまり、米国の変化、中国の台頭、これら要素が齎す不安定な情勢の中心がアジアにあると言うものです。

そうした構図にあって日本はというと、その立場は米中とは大きな違いがある処です。
つまり日本とアジアの関係は、企業の供給網を通して、実体経済との結合を深めてきており、例えば、東南ア諸国が再びTPPを無視できなくなってきた事情としてあるのも、そうした日本が参加してきたことにあると言うもので、日本の参加は域内の自由化の躍動感に火をつけたから、と言われています。これまでのTPPは米国と小国の寄せ集めの「張り子の虎」にすぎなかったとも言え、日本の参加でTPPは実体を伴う経済圏に変質してきたとされるのです。

勿論、腐っても鯛ならぬ米国は依然自由主義の経済大国であり、彼らのサポートは不可欠ですが、内向きになってきた米国に代わって、その役どころを果たして行けるとすれば、つまりはTPPの締結を促し、アジア太平洋の広域自由圏の創造に一役買っていくことが出来る国があるとすれば、今の日本をして他にないものと思料されるのです。

そうした構造の変化を踏まえた場合、いつまでも既得権益にとらわれた聖域5品目(注)云々の議論ではなく、将来から見る日本、そしてそれに向かったアプローチと戦略をベースにTPPの主役を目指すべきと思料するのです。これこそはまさにアベノミクスのこれからの課題であり、期待される処と思料するのです。実際、10月28日には東京でTPPの知財関係の中間会合が持たれていますが、これは10月8日のインドネシアでの首脳会議で安倍首相が提案したことに拠るものでした。

   (注)日本経済が行ったTPP聖域論についてのアンケート(10月25~27日調査)では、
    重要5品目(コメ、麦、牛・豚肉、乳製品、甘味資源作物)の関税撤廃を検討し始めたことにつ
    いて「妥当だ」が53%、「妥当でない」は29%に。重要5項目は自民党が7月の参院選で「聖
域」として関税維持を掲げていたが、自民支持層でも6割が関税撤廃の検討を「妥当」と回答し
ていた由。

平成の「尊‘農’攘夷」論者

序でながら、TPPについては、日本の力を削ごうとする米国の陰謀だとか、競争力に欠ける零細農家が犠牲を払う事になる、とか、反対する論者は今なお多くあります。しかし、少子高齢化が急速に進む日本経済にあって競争力を維持し、持続可能な経済に持っていくためには構造改革を進めていく事は必然であり、同時に経済発展を担保する要素としてグローバル経済との連携も不可避というものです。にも拘わらず、自由化反対、TPP反対と叫ぶ反対論者の姿は、江戸末期、時の変化を理解することなく開国反対を叫び、開国を受け入れようとした幕府を倒せと、当時、下級武士が尊王攘夷論を掲げバトルを起こし散っていっていった姿を想起させる処で、TPPの反対論者はいまや、‘尊王‘ならぬ、平成の「尊‘農’攘夷」 論者と映るばかりです。


3.財政の健全化 -カギは社会保障費の抑制、そして・・・。

日本政府の対外債務は1240兆円(13年3月時点)と、GDPの2.3倍にもなっており、先進諸国の中ではダントツに抜きんでている状況です。勿論、今の処は乗り越えられてきていますが、これにも限界があることは言うまでもありません。

つまり、国家予算(13年度、一般会計103兆円)に占める社会保障費は現状31%と高水準にありますが、これが高齢化の進展で社会保障費は自動的に膨らんでいく事になるわけで、その「自然増」が年1兆円規模となっている現状(11月15日付日経)を放置したままでは、消費税率を2桁にあげても追いつかない事は自明の処です。つまりは歳出抑制の手段を定めないと財政運営への信頼感は高まらないという事です。そしてそれら高齢化への対応は、医療・介護の制度改革と不可分の問題であり、規制改革問題に直結する処でもあるのです。そして、それは日本経済を新たな姿に開拓、革新していく、つまりは「拓く」プロセスに繋がっていく処です。

と同時に、少子高齢化対策、つまり人口減少への対応が明確にされていく事が不可欠となる処です。そして、これが財政健全化と結び付けられていく処でもあるのです。
国立社会保障・人口問題研究所の推計では、2010年に1億2805万人だった日本の人口は2040年までに1億700万人余りまで減少することになっています。人口の減少、労働力人口の減少は、そのまま日本経済の縮小が予想される処ですが、これまでも問題意識はあったものの、問題のクライマックスらしきものがないだけに政治の危機意識は希薄だったと言え、今なお、人口対策を取ろうという政治的な動きは見えません。持続可能な経済を確保していく上で、人口減少社会に備えた対応を如何に考えていくか、が問題となる処です。


4. 安倍政治の気がかりなこと
  - 積極的平和主義と原発汚染水処理問題

さて、10月15日、召集された国会冒頭での所信演説で、安倍首相は再び、デフレ脱却へ向け、成長戦略を実行する決意を示し、財政再建、社会保障制度改革の同時達成を図っていく考えを強調したのです。そして「実行なくして成長なし」と彼は訴えたのです。是非、既成の利権等に囚われることなく、思いの処を実行していって貰いたいと期待する処です。

しかし、差し迫ったテーマはそうした経済だけでなく、いま、安倍首相は‘積極的平和主義’の言葉を以って、日本の安全保障の在り方を急速に問い質そうとしています。それは‘日本のことだけを考えていては、日本の平和は守りきれない’との発想の下、日本の安全保障外交の枠組みを再考しようと言うもので、近時、高まる中国脅威に駆られた行動とも言える処かと思います。しかし、なにか気になる、というものです。

というのも日本の安全保障への取組の如何は、国民の安全、安心に直接的にかかわる問題であり、国の形に関わる事項だけに、それら経済問題以上に大変な問題と言わざるお得ないのです。具体的にはどういう事なのか。

その一つは、10月3日、東京で行われたツー・プラス・ツー会議を巡る問題です。
これは日米外交・防衛大臣による東京では初の会議でした。前述のようにオバマ大統領の姿勢が内向きになってきたなかでの会議ですが、とにかく日米防衛協力のための指針(ガイドライン)を来年末までに見直すことになった由です。もとよりこれが日本の将来のかたちを規定していく事にもなりかねず、その推移は大いに気になる処です。実は、これは日本側からの呼びかけで行われた由ですが、時まさに、平和主義を原則とする現行、日本国憲法を積極的平和主義の名の下、‘核三原則の見直し’、‘集団的自衛権の容認’、‘これまでの安全保障政策については外交ルートをベースとして来たものを、新設予定の国家安全保障会議(日本版NSC)をベースによる対応に改正する’事、更には‘防衛大綱の見直し’と言ったことが、具体的俎上に上がっている環境下での会議だけに高い関心を呼ぶ処です。
米国の軍事費予算はいま大きく減ってきています。それだけに日本への期待が高まっていると言われてきていますが、間違ってもこの作業が、軍事同盟に結びつくようなことになることは絶対に回避されるべきと考えます。

勿論、日本版NSCの新設は、とりわけ近時の緊張を齎すアジア情勢に照らし、又そうしたアジアと共存していく為には、情報対応を整備していく事は否定するものではありません。しかし、これが現在進められている特定情報秘密法との兼ね合いで、情報の公開が規制されることになるのでは、と危険性を感じざるを得ないと言うものです。しかも、そこでの会議の議事録は作成しないと決められるようでは、ましておや、という処です。
ただ、現下の世論の風潮からは極めて気がかりというものです。今後の経過を注視して行きたいと思料するものです。

もう一つは福嶋原発の汚染水問題です。これまでも幾度となく指摘してきましたが、依然、汚染水の漏えいは止むことはなく、問題解決へのシナリオは依然見えていません。現下の事故処理スキームではもはや無理となってきているのでは、と思われます。周知の通り、放射性物質の拡散を防ぐ事は原発の廃炉だけでなく、国際社会の不信を和らげるためにも避けられない課題です。もはや、東電の汚染水対策など廃炉作業を担う部門を切り離し、政府関係機関と統合し、今、民主党からも提案されている「廃炉機構」の立ち上げをこの際は考える時ではないかと思料するのです。

目下話題の中心となっている小泉元首相の発言、つまり原発の再稼動は反対との発言は、世界初のフィンランドの高レベル放射性廃棄物地層処理場「オンカロ」の現場を見た上で、日本の実情に照らし、原発の再稼動反対を明言したことは、まこと説得力のある処と思料するのですが・・。いま国家の危機管理を行動で示すときではないのかと、思いは深まるばかりです。


おわりに

アベノミクを解析的に定点観測を始めるに当たり、昭和初期の政治家、高橋是清について研究し、適宜、発表してきました。というのも、安倍首相は、是清を「勇気づける先人」と明言してきています。つまり、言うなれば‘師’と位置づけていたと言うものです。
そこで、安倍経済政策、アベノミクスを理解していく上で、まずは、高橋是清の世界を理解し、そして安倍晋三が目指す政策と是清のそれが如何に共鳴しているものか、更には、彼の政治行動がどの程度にまで、是清のそれに近づき得るものか、みていきたいと言うものでした。

確かに、金融・財政政策については、是清の当時の政策を超えるほどの成果を上げてきたと言える処です。問題は、本番を迎えたこれからの動きという事になるのですが、是清と対比してみるとき、その違いを際立たせるのが国家観にあるものと言えそうです。

つまり、是清は、政治家としての行動規範として13の原則を有していたと言われます。その原則は実に国民と国の発展を常に目指し、衝に当ることを一義とするものでした。
因みに、軍国主義の時代にあって、彼は徹底的なリベラリストとして、軍事予算については国民の経済厚生からは無駄なものとして極力抑える事に専念したと言われています。これが原因となって彼はテロに遭遇することになったのですが。一方、安倍氏についてはどうか、経済再生のシナリオは順調に進み、彼の手腕は世界的に評価される処となっています。しかしその余勢を駆ってか、或いは本来の国家主義思想が出てきたと言うのか、急速に右寄りの思想を行動として表そうとしているやに見受けられます。とすれば彼の国家観はどういう事になるのか・・。

本年度の軍備関係予算は増大しており、更に増加が予想されているのですが、この動きを是清との対比でどう見ればいいのでしょうか。ある人に言わせれば、安倍晋三のDNAには、経済の上位概念として政治があり、従ってアベノミクスで経済が順調に進めば、次はそれを礎に、国体づくりに回ることになる、と言うのですが、とすれば、今後、ますます安倍政治の行動様式が気がかりとなる処です。 
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