2013年11月19日

アベノミクスの検証-高橋是清から何を学ぶのか - 松井幹雄

1・生い立ちと時代環境
高橋是清は、1936年2月26日、岡田啓介内閣の大蔵大臣として陸軍青年将校の凶弾に斃れ、81年の波乱の生涯を終えた。二・二六事件であり、この時期から日本は、中国大陸で戦線を拡大し、そのまま太平洋戦争に突入する。彼は、その前に立ちはだかる障害として排除されたのである。高橋は、日露戦争終結の頃から「財政金融の第一人者」と目されるようになったが、軍事力を増強し世界の中で孤立化するのではなく、英米と協調しながら経済発展を図ることが日本の生きる道だという国家観を、確固たるものとしたのもこの頃だった。
高橋の生涯は、その活躍した期間の長さ、時代に残した足跡の大きさ、さらにはその浮沈の激しさにおいて文字通り波瀾万丈であった。数奇な出自と英語力習得を巡る幼少から10代前半にかけて異常ともいえる体験を重ね、そこから30代前半まで仕事の変遷と振幅の大きい生活が続いたが、常に前向きであり学習意欲も旺盛だった。そして、明治後期から大正の初期まで国際金融分野の専門家として経綸を磨くと、大正中期から昭和10年代半ばにかけて度々大蔵大臣として、さらに総理大臣として日本の国家経営に参画したのである。
*高橋是清の伝記をまとめた歴史学者、R.J.スメサーストは、次のように述べている。「高橋は、封建制末期の古典教育にも、明治期の国家教育にもとらわれない価値観を持つと共に、若いときから日本語と英語の両方で、読み、話し、学ぶことに飽くなき欲求を持っていた。高橋は、下級武士の出であり、また、上下世代の中間の時代に生まれ、さらには幼少期と10代に尋常でない経験をし、しかも社交的で屈託のない性格だったために、教条主義的な理論にとらわれず広い視野で問題に取り組むプラグマティスト的な考え方と、私心のない態度、すなわち、自分の属している社会を内側と外側から同時に観察する能力を磨く機会にめぐまれた。これは、第二次大戦前の日本の指導者の中にあっては特異なことであった。」(R.J.スメサースト(鎮目雅人他訳)『高橋是清―日本のケインズ その生涯と思想』東洋経済新報社、2010、pp379-380)

彼は、20代後半に特許・商標法策定に係ったのをはじめ、農業専門学校長、ペルーのカラワクラ銀山経営、日銀建築工事事務所支配人等、さまざまな仕事に携わった。殆どが、日本人としてはじめて取り組む仕事だったが、彼は斬新な発想と私心のない仕事ぶりで大きな成果を挙げた。日露戦争期には、日銀副総裁のまま財務官として外債募集に携わり、戦費調達という国運の懸った難題を解決し、一躍内外にその名を高めた。さらに金融恐慌、昭和恐慌に際しては蔵相として、通説と異なる大胆な対策を採用し、世界大不況からいち早く脱却するという画期的な成果を挙げている。そして、1930年代に進行する軍国主義と国際的な孤立化に警鐘を鳴らし、軍部に対抗した数少ない英米協調派であった。


高橋と同世代の政治家だった尾崎行雄は、政治的に対立する立場にあった高橋について次のように述べている。「(高橋の)並はずれた前半生のために、なに事にも形式ばったことの好きな日本人には、高橋君のような性格は、見つけたくてもなかなか見つからないものだ。だから彼は、おそらく、世間の喝采を受けても有頂天になるまいし、反対に非難をこうむっても、びくともするものではない。こうした性格なので、後には帝国の困難な財政経済を背負い、国宝的存在とすら言われた。」
この尾崎の高橋評は的確で鋭い。「形式ばったこと」が嫌いな合理主義者であり、しかも「世間の喝采を受けても有頂天にならず、非難を被ってもびくともしない」いう彼の資質は、昭和前期日本が直面していた財政的な困難と大衆迎合的な政党政治の混迷に対峙し、成果を出していくために必要不可欠だったといえる。
*尾崎行雄『咢堂回顧録(下)』雄鶏社、1952、p199。

このような「特異な日本の指導者」を創りだした背景を辿ってみる。その第一が養祖母の高橋喜代子に養育された幼少期である。
13歳になった高橋が、横浜の外人居留地で学んだ英語力を磨くためにアメリカに旅立つ時、養祖母は、餞別として一振りの短刀を渡した。「男は名を惜しむことが第一だ。義のためや、恥を掻いたら、死なねばならぬことがあるかもしれぬ、その万一のために授けるのです」と諭し、切腹の方法まで教えていた。高橋は、はじめての、しかも言葉の不自由な異郷で生じたさまざまな難問―その一つが強制労働から逃れることだった―に対して、怯むことなく正面から向き合い解決法を探り出すことができた。常に高橋の言行の背後にあった覚悟を示唆する挿話である。
80歳になった高橋は、「財政と家庭」という対談のなかで、「子供には小さいときから『恥を知る』ということを教えたいと思います。子供の三つ四つは、傍から見れば何も判らないだろうと思うが、実は親のすること、兄弟達のすること、実によく見ているのです。よいことも悪いことも、皆知るのはこの時代です」と述べていた。
*高橋是清『高橋是清自伝(上)』(中公文庫)、p38、および高橋是清『随想録』(中公クラシックス)、p159。
自伝の中に、横浜から貨物船に乗り、アメリカに向かった時の記述がある。「子供の癖に一列ボタンのフロックコート、形紙で拵えた帽子には白い布片の日よけが垂れていた。・・・靴は婦人用の絹製古靴」といった具合で、すべて横浜居留地で手に入れた中古品を子供用に仕立て直したものだった。髷は、養祖母が切りとって散切り頭、鞄には切腹用の短刀、というまことに奇妙な格好で、彼の、波乱万丈の人生を象徴するかのような門出であった。さらに養祖母喜代子の人生も波瀾万丈であり、しばしば訪れた難局に節を貫いた女丈夫であった。詳しくは、自伝(上)、pp306-310.

高橋は、幼児期に観音経の敬虔な信者であった養祖母から信仰心を植えつけられており、齢とともに一種の固い信念となっていった。そして、成人になって遭遇する幾多の変遷浮沈に対しても、「存外平然としていることが出来るようになったのではないかと思う」と回顧し、「祖母が観音像を守り神として、身につけて離さなかったのを受け継いでいるので、それを特に霊の目標としているわけである」と記している。仏像の収集家であり、仏像については一家言もっていた。このような養祖母の影響もあって、彼は、幼少の頃から楽天家だと人からいわれ、何事にも挫けないで取り組む性質だった。
*高橋是清『随想録』Pp141-142)幼少時に、これも喜代子が話をつけて奉公することになった大崎猿町の仙台藩菩提所の寿昌寺で、葬式の後で死人を埋葬する手伝いをしていた。その影響で、「私は死人を恰も自分の友達であり、かつ尊ぶべきもののように感ずるに至った。・・・暗くなった夜中に、葬式が来ると、恰も兄弟が、親しい友達でも迎えるような温かい愉快な気分を以て対したのであった」と述べている。

高橋は、彼が活躍した同時代だけでなく歴史上の人物としても、数奇な出自をもつ「財政家」、それも「積極主義者」あるいは「放漫主義者」という観点から論じられてきた。しかしこの評価は一面的であり、彼の思想を単純化し教条主義的に捉えた結果に過ぎない。確かに高橋は、農商務省の同僚だった前田正名の影響もあって、若くして政府の第一義的な役割は、経済発展の促進であり、そのために伝統産業や地域産業を振興し、国民の生活水準を向上させなければならないという経済的信念を持ち、それは終生変わることはなかった。しかし、他方では物事の根本に迫り、その実態に即して柔軟で実効性を重視した発想をするプラグマティストでもあったのである。
*高橋が「放漫主義者」であったかどうか。R,J,スメサーストは次のように述べている。「この問いに対する答えは、インフレに対する考え方次第である。もしインフレはいつでも、そしてどのような水準であっても許容できず、たとえ国民所得の停滞とともにデフレが進行しているような状況であっても許容できないと考えるのであれば、高橋が1932年から1935年にかけてとった政策は放漫であったといえよう。しかしながら、もし高成長を実現するために穏やかなインフレが進行することは許容されうると考えるのであれば、その意味で大蔵大臣が放漫な政策をとることは推奨されるであろう。」(R.J.スメサースト、前出、p333)

2・日露戦争の戦費調達とその教訓
1904年2月、旅順港のロシア艦隊に対する奇襲攻撃で日露戦争がはじまった。開戦直後の欧米諸国では、「豪胆な子供が力の強い巨人に飛びかかった」といった見方が多く、ロシアと同盟関係にあったフランスのデルカッセル外相は、開戦直前まで、アジア新興国日本がヨーロッパの大国ロシアに戦いを挑むはずはないとみなし、日露間の和解に努めていた。日本の同盟国であったイギリスでも、外交専門家達は、戦況が日本に不利になる事態を想定して自国の対策を協議していたのである。また、日本軍の指導者も、最初の先制攻撃については周到な準備をしていたが、戦争全体の計画を立てていたわけではなかった。彼等は当面の小さな作戦目標を達成すると、次に新しい目標を立て、その実現をめざすやり方で進んだのである。
*横手慎二『日露戦争史』(中公新書)、2005、pp113-161.なお、松元崇は、日清戦争後の講和条件に際して、当時の日本指導者の国防に対する見解の違いについて次のように指摘している。「(松方正義は)遼東半島割譲よりも賠償獲得を優先すべきとしたのを、大陸での拠点確保が必要とする伊藤首相と陸奥外相が押し切ったのであった。その結果が三国干渉になった・・・明治30年9月、首相兼蔵相だった松方正義は『国民新聞』紙上に、国防問題をただちに軍備拡張問題と同一視する風潮は極めて危険であると批判し、通商を拡大し、国際的な相互依存関係を深めて国富を増進させることこそ安全保障に貢献するゆえんである主張している、それは山県有朋に対する歯に衣着せぬ批判であった。」(松元崇、『恐慌に立ち向かった男高橋是清』(中公文庫)pp151-152)

当初想定された戦費は、4億5千万円で戦争直前の1903年の歳入額2億6000万円の1・7倍の規模だった。このうち軍艦など軍備購入に必要な正貨1億円は外国から借入れと想定されていたのである。実際に掛った戦費は17億円超と大きく膨れ上がり、外貨調達の規模は当初目標の8倍になった。大増税が行われ、なお不足の部分が外国からの借金となった。開戦翌々月の1904年4月各税の一律増税とたばこ専売制の導入という第一次非常特別措置が、続いて翌年には更なる増税と新税の導入をした第二次非常時特別措置が行われ、1億4400万円の増収が図られた。しかも、これらの非常特別税は、「平和復ニ至リタルトキハソノ翌年末日限リ」で廃止することとされていたが、ロシアから賠償をとれなかったために戦後も継続され、国民の強い不満を招くことになったのである。
松元崇は次のように述べている。「『明治100年』を生きた老人たちが第二次大戦中や敗戦後と比べても『(三国干渉による)臥薪嘗胆と日露戦争の時期も同じくらい苦しかった』と述べる状況となったのである。そうして戦われた日露戦争が、財政的に見れば負け戦だったことから、日露戦争後もわが国の経済・財政にとっては厳しい時代が続くことになった。不況が慢性化し、公債残高は、明治29年度末の3億5100万円が、明治36年度末には5億3600万円となり、日露戦争後には20億円を超えるまでになったのである。」
*松元崇、前出、pp33-34。およびp163.この厳しい借金財政を一挙に解決したのが第一次世界大戦中の戦時景気であった。まさに天恵だったのであり、1914年時点で破産寸前の債務国だった日本は、大戦末期にはアメリカに次ぐ世界第二位の債権国になったのである。

松方正義、井上馨等国家財政に責任を持つ元老達は、この戦費調達のための外債募集は多難な仕事であり、この任務を遂行できる人物は、日銀副総裁の高橋を措いていないと考えていたのである。
こうして高橋は、日銀副総裁のまま財務官として1904年から1907年にかけてロンドン、ニューヨーク、ヨーロッパ大陸を駆け巡り外債発行に携わった。彼は、この仕事を通じて、アメリカのユダヤ系投資銀行家として著名なジェイコブ・シフと知り合い生涯の友となった。さらにイギリスのアーネスト・カッセル、アルフレッド・ロスチャイルドなども高橋の熱心な協力者であった。高橋は、これら投資銀行家達との付き合いのなかで、国際金融界に飛び交う政治経済情報、海外借入れの際に要求される財政の規律と健全性など実践的知識を得ただけでなく、貴重な海外人脈を作り上げたのである。さらに経済発展をめざしている日本にとって英米との協調が不可欠であること、日本という国家のあり方、とりわけ軍事優先政策のもつ危険性、経済成長の成果を労働者階級と分ちあうことの重要性など広い分野について、当時世界で活躍していたトップクラスの投資銀行家達と真剣な意見交換を繰り返した。日本の国家としての優先順位は何かという、国家経営の基本問題を、外部から客観的に自分の目で見てかつ考える貴重な機会に恵まれたのである。
高橋は、日本が、資金、近代技術、希少天然資源を全面的に英米に依存しているという冷厳な事実を改めて思い知らされた。高橋は、アメリカの七分の一、イギリスやフランスの三分の一の経済規模しか持たない日本という国は、「列強」の一員にふさわしいことを証明したいという願望のためだけに、欧米諸国にいたずらに追随すべきではないと考えていた。民族主義者だった彼は、日本の国際的地位を内外に知らしめるよりも経済発展を優先させるべきであるとの結論に至ったのである。ともかく日露戦争に要した費用のおおよそ半分をイギリス、アメリカ、ドイツおよびフランスの資本家からの借り入れており、その返済のために増税と、長い時間が必要だったのである。彼は、英米両国は日本が最も恩恵を受けた同盟国であることを学んだのであり、この認識は生涯変わらなかった。
*R,J,スメサースト、前出、p305.
  
さて困難が予想された外債発行に成功したことで、高橋の評価がガラリと変わり一気に政財界の頂点に上り詰めることとなる。
しかし、日本は、戦争が終わった翌年には「帝国国防方針」を策定し、陸海軍が競って軍事力の増強に乗り出した。国債が増発されて、第一次大戦までの10年間の日本は借金まみれの状態だったのである。高橋は、こうした状態が国家として如何に危険であるかを理解しており、ことあるごとに財政引締めを提唱した。しかし、高橋が学んだ教訓は正当に評価されることはなかったのであり、彼の提言は歴史のなかに埋没したのである。
日露戦争によって、日本は東アジアの強国となった。1910年に韓国を併合し、さらに中国に対して、満州の権益に特別の配慮を求めるようになった。1915年には日本は中国の袁世凱政権に「二十一ヶ条要求」を突き付け、イギリスが近隣で戦っている間に中国に帝国主義的侵略をしようとしたのである。日本の動きに両国は激しく反発したが、実力によって日本の行動を阻止することはできなかった。日本の動きは、欧米諸国からも批判を招いたが、彼等もその動きを阻止することはできなかったのである。こうして日本は、高橋が外債発行の仕事を通じてたどりついた、英米との協調路線とは異なる方向を、軍事的な視点から独善的に選択していったのである。
*横手慎二、前出、pp198-201。

高橋は1913年、日銀総裁就任後1年半が経とうとしていた時、山本権兵衛内閣の大蔵大臣としてはじめて入閣した。生粋の海軍軍人であった山本は、その時まで高橋とは顔を知っているくらいの関係であった。彼は、山本から突然に呼び出され、「自分は内閣組織の大命を拝した。一つ大蔵大臣になってくれ」と云われて、ほぼ即答に近い形で引き受けた。
この時のことを高橋は次のように語っている。「山本は『自分は日露戦争の後にどうも財政が大事だと考へ、経済の事で一体民間でどういう人が良いかと云うことを松方公に聞いた。君は国家のためならば、己を空しうして尽くすと云う事をきいた。君を大蔵大臣にすると云っても、君の手腕を第一に頼りにすると言うのじゃない。君の精神を頼りにして頼むんだ』といった。そこで私(高橋)は、『己を空しうして国家のために尽くすと云う精神に至っては、私は決して人後に落ちぬ。手腕を問はぬと云うことであるならば宜しい、お受けしよう』と云うことになって、すぐその場で以てわずか五分間ぐらいで決まってしまった。」
*高橋、『随想録』、pp21-22。この時、高橋の大蔵大臣就任は、彼の周辺にいた人たちにとって想定外だった。高橋の応諾は難航する、説得しなければならないと待ち構えていたのである。随想録に次のような一節がある。「梯子段を降りて来ると、今の牧野内府(内大臣牧野伸顕)と奥田義人(山本内閣の文相)が下の座敷から出て来て『どうだった』と云ふ。『かう言う訳だから宜しく』といふと牧野、奥田の二人が『実は、我々は恐らく君は受けまい、受けなければ我々二人でここで待ち構経ていて説得する積りだった』と云って笑い話になった。」(随想録、p22)

1913年2月に発足した山本内閣は、軍部大臣現役制を止め、枢密院の定数を減らす、文官任用制を改め政党人が事務レベルの高官につけるよう官僚制を民主的な統制の下におく等、当時懸案となっていた改革を前進させたのである。しかし、海軍の汚職事件(シーメンス社が装備品の納入のために海軍士官を買収した事件)に巻き込まれ、総辞職し14ヵ月の短命内閣になった。そして「政治は苦手」と自らを評していた高橋は、はじめての蔵相体験で多くのことを学んだ。生産的な支出や借入を重視する一方で、非生産的な支出や借入れには反対した。政府支出を抑制し、地方自治体や企業が海外で資金調達することは奨励した。また、彼が、予算の編成過程で取り組んだのは、財政の立て直しのための政府の倹約と合理化であった。その一つが官僚機構の規模の縮小と、年功序列でなく業績に基づく昇進システムを導入することであり、この具体的で実践的な政策の中に合理主義者、高橋の特徴が読みとれる。
*この時の高橋の財政方針は「積極主義」と称された。低金利、生産的な目的での外資導入、需要と事業投資を喚起するための減税のほか、港湾整備、鉄道建設、治水事業などの公共事業への財政資金の投入によって経済成長を刺激する。この政策スタンスは、以後基本的に変わることはなかった。これに対し、同時代に蔵相を務めた山本達雄、若槻礼次郎等は、過度な支出、特に軍事費の拡大、外資導入、低金利が経済を過熱させ、インフレにつながることを危惧する消極主義であった。景気の停滞や倒産は「金本位制の自動調整メカニズム」のもとで安泰に過ごすための代償であると考えていたのである。この財政における積極策と消極策は、1930年代の高橋と井上準之助との間で再現される。

3・昭和恐慌の克服と「高橋財政」
1931年12月12日、民政党若槻内閣が崩壊すると、翌日に政友会の犬養毅が内閣を組閣し、高橋は大蔵大臣に就任した。彼は77歳の高齢に達しており、体調がすぐれない中での5度目の大蔵大臣ポストであった。前年から進められた金輸出解禁と緊縮財政のため、日本経済は昭和恐慌の真只中であり、物価は下落し失業者が増加、農業は農産物価格の下落によって打撃を受けており、海外でも世界大恐慌の暗雲が広がりつつあった。高橋は、この深刻な状況に対し、すぐに前内閣で井上蔵相が進めてきた緊縮財政を方向転換することを決める。金輸出を禁止し、金本位制からの離脱したのである。
後に「高橋財政」と称される昭和恐慌対策の骨子は、①金利を順次引き下げて、金融の融通を図り、公債発行を便利にし、株価の低落を抑制すること、②外国為替相場の低下を放任することによって輸出の回復を図ること、および③財政支出の増加によって、直接経済を刺激するという三つの柱からなっていた。
*R.J.スメサーストは、この様な高橋の思考様式がまさにケインズの視点だった、と主張している。(R.J.スメサースト、前出、p300)

因みに、イギリスは、1931年9月に金本位制を離脱しており、デンマーク、スウェーデン、ノルウェイもイギリスに従っていた。結局、内閣の交代で登場した高橋は1932年1月、金輸出再禁止をおこなったのである。高橋は、1932年7月井上と金本位制で論戦を行ったとき、自説をこう述べている。「金本位が国民の、あるいは国家の存立にどうしても必要なものだというご意見(井上)のようだが、それは正しいとしても、金本位を維持するものは国力であり、無理な解禁を行ったことは間違いである。ヨーロッパの新興国が金本位を採用したのは、外国資本の導入のために必要だったのである。日本と中国の貿易は、日本は金本位、中国は銀本位だが別に不便は感じられない。金本位にあらずんば国が立たぬではないかと云うことは、これは間違った話である。」
*中村隆英『昭和恐慌と経済政策』(講談社学術文庫)、pp165-171。イギリスが離脱した段階で、日本も追随する機会医が到来したかに見えたが、井上蔵相は断固として拒絶した。「彼は、駆け出しの政治的経歴をこの試みにかけており、彼自身の見立てによれば、自ら誘導した不況の嵐を日本が乗り切ったこの時期に、この勝負から下りる理由はどこにもなかった。しかし、次なる衝撃への備えは持ち合わせていなかった。」(R,J,スメサースト、前出、p315)

高橋は、「新平価解禁派」とも言われたが、少数派であり、石橋湛山、高橋亀吉等民間エコノミストが支持していたが、財界主流の意見とは食い違っていたのである。当時の主流は「清算主義」、つまり企業の整理・淘汰を進め過剰設備や不良債権を解消し、さらに金本位制への復帰を図ることでしか日本経済の再生の道はないとする考え方であり、いわゆる「旧平価解禁派」といわれていた。
ただ注意すべき点は、高橋も当時の日本経済に設備過剰や不良債権などいわゆる「構造問題」が存在していることは認めており、この点では「旧平価解禁派」と何ら変わらなかったことである。「新平価解禁派」は、物価などマクロ経済の安定のためにはマクロ経済政策を、構造問題の解決には構造改革をそれぞれ割り当てるべきだとし、さらにデフレ下では前者を優先しつつ後者を進めるべきであるという経済政策の優先順位についての考え方の違いであった。
*岩田規久男『昭和恐慌の研究』東洋経済新報社、2004,pp278―279。

前任者の井上準之助は、旧平価での金本位制復帰をなによりも優先した。彼は、金本位制の仕組みのもとでは、景気の過熱による物価騰貴や不況による物価下落は、金の流出入を通じて自動的に調整されるという機能を、教条主義的に長期低迷する日本経済に当てはめることで、不況からの脱出が可能になると考えていたのである。プラグマティストでもあった高橋は逆であった。理論はあくまで道具に過ぎない。経済のどこが問題なのかを徹底的に確かめ、それに最適な手段を探し、それを適用しようと努力を続けた。もちろん経済は機械ではなく一つのシステムであり、全体の目標が明確でなければならないが、この点についても高橋の立場は明確であった。
*吉川は、金本位制がその一部となる新古典派理論とケインズ理論の違いを次のような比喩を使って説明している。「(新古典派理論)が『風や波ではなく、潮の満干を律する法則』つまり『経済の長期的な傾向に関する法則』を対象としたのに対し、ケインズは『風や波』すなわち『短期の問題』を鋭く分析した。たしかに台風の最中に大海に浮かぶ船の立場からすれば、問題は風や波であろう。・・・新古典派理論は、『価格の経済学』である。我々の住む市場経済の調整は全て価格の変化を通じて行われる。これに対してケインズは価格、とりわけ名目賃金の変化は極めて緩慢であることを強調した。・・・価格の調整を素通りして数量(需要)が数量(産出量)を直接決定する理論を展開したのである。」(吉川洋『ケインズ』(ちくま新書)1995、pp181-183)

日本は「高橋財政」によって昭和恐慌からの脱出に成功していく。1931年12月から36年2月までの高橋財政期に、2%の緩やかなインフレの下で、実質経済成長率7・2%と、その直前の昭和恐慌期(1930-1931・11)の10倍となり株価は70%、地価の下落も止まって1%上昇したのである。1920年代の長期低迷基と比べても抜群の成果を上げた。岩田規久男は、経済学者の視点から、この成功の要因が、金本位制からの離脱と日本銀行による国債引き受けであった、と指摘している。
因みに、1929年のニューヨーク株式大暴落からはじまったアメリカの長期不況はどうだったのか。フランクリンD,ルーズヴェルトが大統領に就任したのが1933年3月、彼はニューディール政策(その根幹をなしたのが農業調整法と全国産業復興法の制定)の実行を進める一方で1937年には「財政支出を大幅に削減し、本格的な財政均衡政策へと舵を切っている。」その結果、38年には再び厳しい景気後退に見舞われることになった。ルーズヴェルト大統領が、ケインズ的な財政政策をとるようになるのは、二期目の1938年4月の景気回復計画からで、それまでは米国は、金本位制を離脱した1933年4月以降も均衡財政をめざしていたのである。

さらに1920年代から昭和恐慌に至る長期の不況、停滞で疲弊した農村救済問題も、当時政治的な焦点となっていた。高橋が実施した農村経済更生政策は、今日から見てもきわめて斬新でかつ具体的であった。即ち、財政による救済と相まって「農村漁村みずから奮起し」、「官民一致の協力により、統制ある組織的な農村経済更生の施設を樹立し、これが確実なる実行を期する」というものであった。その方針は土地の利用配分、労力の利用、農業生産統制、農産物の販売、肥料その他農業経営用品の供給改善、農業経営の改善、農業金融の改善、負債整理等々について、農村経済更生計画を樹立させ、これを実施することによって自力更生を図ろうとするものであった。
*高橋は、この頃にはF,W,テイラーが提唱していた、「サイエンチックマネージメント」という「能率増進」のための「科学経営法」について相当の知識を持っていた。彼の『科学的管理の諸原則(The Principles of Scientific Management)』は、1911年にアメリカで出版され、直ぐに日本に伝わっていたのである。当時の日本紡績業や電気機械の工場では、「時間動作研究」や「課業管理」などの手法を工場現場に適用する工夫をはじめていた。そして高橋も、この生産工場現場の能率増進の方法等について講演等で言及していたのである。(高橋、『随想集』、pp279-283).

さらに、農村のリーダーを旧来の地主から自作農中堅層に切り替えること、従来の肥料商や米穀商の力を抑制し、産業組合を中心とした経済厚生を図るなどの新しい方向が打ち出されたのである。しかし、これら高橋の新機軸は戦争で中断され、戦後になって本格的な開花を見ることになる。
*高橋も随想録のなかでこう述べている。「経済的の施設は一朝一夕にその効果を望めるものではない。少なくとも2年ぐらい経たなくては真の効果は挙げ得ないのである。私のやったことをいうのは可笑しいようだが、昭和6年暮れの金輸出再禁止以来とつて来た政策の効果というものが現れて来たのは漸く昭和8年の下半期頃からであった。しかし国際的にも国内的にもこういうむずかしい時世では個々の問題について目安は定めて置いても、一定不変の政策を押し進めていくことが出来ない場合が起り得るのである。」「経済難局に処するの途」と題して、昭和10年1月に執筆された文章である。(高橋是清『随想録』、pp194-195)

1937年に勃発した日中戦争によって日本の産業は、軍事産業化に向けて急傾斜していったのである。そして戦後につながる産業政策の雛形が登場したのもこの時期であった。「高橋財政」のもとで推進された産業政策は、円安と相俟って、化学肥料、人絹、工作機械をはじめ電気機械などの分野でも最新技術を導入した新しい産業が次々と登場した。不況脱出から次の成長に向かう新たな経済循環がはじまっていたのである。その裏には、高橋の革新的な産業政策思想があったのであり、「高橋財政」の成功に貢献したもう一つの要因である。中村隆英はこの時期を次のように意味づけている。「ようやく産業構造が高度化し、設備投資や建設投資が増加して、鉄鋼、セメント、機械類をはじめとする投資財が本格的に需要される時代が到来していたのである。戦争さえ起こらなかったならば、戦後にみられた設備投資を起爆剤とする経済成長が可能だったかもしれない。」実際に、この1931年以降の高橋財政の時期には、日本の近代産業の中で先行し1930年代半ばまでに最大の輸出商品に成長した綿織物は、「イギリス経済のエンジン」といわれ、約1世紀の長い間世界市場に君臨してきたランカシャー綿織物を追い越して、世界市場でトップの地位に躍り出ていたのである。
*中村、『昭和史Ⅰ』、pp171-172。綿織物は、イギリスの産業革命を導き、やがて世界市場を席巻したが、そのイギリス綿織物を追い越して世界トップの座についたのが日本綿織物であった。それは、高橋が、前田正名と共に構想した産業政策、つまり日本経済の発展のためには、軍事力と関連の深い重化学工業の育成ではなく、伝統産業や地域産業の振興と輸出産業化を優先すべきであるとする政策論が、決して机上の空論でなかったことの証明でもある。

4・マネジメント思想の先駆者
高橋は、私心のない客観的な立場に立って問題の根本に迫り、教条主義的な理論や通念にこだわることなく、自分で考え抜き状況から学びながら効きめのある解決策を探し出した。そして常に目的とそれに向けての道筋が意識されていた。これが、R.J.スメサーストがいうところのeclectic pragmatist(視野の広い目利きのプラグマティスト)の本領であり、彼の経済思想を特徴づけるのに、「積極主義」ではなく「管理された成長」という言葉を使った理由であった。
*因みに、中村隆英は、ケインズについて次のように述べている。「ケインズは自説を大きく変えることがしばしばあったためによく悪口をいわれたようだ。そのときケインズは環境が変わったからには政策も変わるのは当たり前だ、と考えていたのだろうと思う。ケインズは優れた経済学者であったが、また並はずれた直観の持ち主であった。政策を主張するに当って、政策当局者は理論的な分析のほかに熟練した臨床医のような直観力をそなえていなければならない。」(中村隆英『昭和恐慌と経済政策』(講談社学術文庫)、p20)

高橋は、随想録で次のように述べている。「私がよく根本根本ということを言って、原内閣の時代にも『君はいつも根本とか国家とかいう事ばかり言う』と云われたけれども、それがちょうど、農商務省で前田君に会った時に感じた私の考えから、終始ずっと進んで来よる。それで何か一つ計画を立てるのでも、根本はどうかということを私はいつも考える。これを行った結果はどうなる、病の根本はどうであると云う風に、根本から考えていく。而してこれを行うに就いて、国家がどうなるという事を考える。だから、今ちょっと事柄が起こった、どうこれを処置したらいいかという場合、一時的なことは考えない。起これば起こった原因から調べていかねばならぬ。」
*高橋是清『随想録』(中公クラシックス)、pp223-224。前田正名は、高橋より4歳年上で薩摩出身、幼少から長崎で洋学を学び貿易に携わる。明治2年、政府の命によりフランスに留学し8年間同地で産業政策、とりわけ農業政策を学び帰国した。高橋は、同僚の前田を学ぶべきところが多い「誠実な精神家」として尊敬し私淑するようになった、しかし、前田の理解者だった大久保利通が暗殺され、さらに大隈重信も政権から離れていくと、彼の農業および関連産業の重要性を説く政策思想の後ろ盾がいなくなってしまう。前田は1885年に「興業意見」をまとめたが、大蔵卿の松方正義が勧めていた政策と見解が完全に異なっていた。こうして前田は主流から外され、地方の開発事業などに携わり生涯を終える。貴族院議員にも選出されている。

さらに高橋は、かつて農商務省時代に前田正名から学んだことだが、これらの解決法は市場情報に依存しつつ現場で意思決定するのが効果的であり成果につながるということを、これも自らの経験を通じて確かめていたのである。彼は、この手法で、はじめて取り組んだ日銀本店の新築工事を見事に成功させたことを、ある講話の中で語っている。
ペルー銀山事業で失敗して失業の身だった高橋に声が掛り、1892年に日銀本店の新築工事に係ることになった。工事事務所の支配人として途中から参画したが、当時、工期が1年以上遅れ、経費の大幅増加、しかも当初の設計を勝手に変更するなど問題が山積していた。彼の仕事は、工事を計画通りに立て直し完成させることであった。この時37歳、現場に出かけ「丁稚小僧から始める心持で、毎日早くから事務所に出ては、関係者から直接話を聞いたり自分でも研究した。」曖昧だった下請け工事分担・責任を明確にし、材料発注の計画化と納期短縮、工期短縮のためのインセンティブの導入など斬新な工夫を入れ込んだ。設計を元に戻し、予定通りに完工させたのである。この手腕が当時の川田日銀総裁に認められ、1893年に日本銀行の正規職員に採用され、新設の西部支店長に任命されたのである。
*高橋是清『随想録』(中公クラシックス)、pp233-238.

高橋は、その生涯を通じて幾回となく、当時の日本人の中で誰も経験したことのない困難な仕事に挑戦し成功を収めた。しかし、それだけではない。R,J,スメサーストは、「高橋は政治と経済について、思想家(an economic and political thinker)としても時代に先行していた」と評価している。高橋は、国家がその目標に向けて効果的に機能するために何が大切なのか。これら国家のあり方とその諸原則は何か、と考え抜いた。前例のない問題についてその根本に迫り解決策を考え抜く過程で育まれ、練り上げられた経験や知識を整理し、さらにそれらを活用したのである。
高橋が活躍した当時、「マネジメント」という19世紀末のアメリカに登場した概念は、生産現場の仕事に適用される諸原則という限定的な性格を帯びていた。
しかし、国家総力戦となった第二次大戦の経験を経て、アメリカで体系化された「マネジメント」は、単に工場労働のみならず広く組織の生産性を向上させる概念に進化していたのである。ドラッカーは、このマネジメントを「成果を生み出すために『既存』の知識をいかに有効に適用するかを知るための知識」であると定義している。「知識」とは、効用としての知識、すなわち社会的・経済的成果を実現するための手段としての知識である。

これまで様々な視点から高橋の足跡、業績について見てきたが、彼の思想、そして行動を、ここでいう「マネジメント」の概念で解釈することは容易である。彼はマネジメントの核心の部分に触れていたのであり、そこに彼が大きな足跡を残した理由があったということができる。
*この、第二次大戦後のマネジメントの体系化に大きな貢献をしたP,F,ドラッカーは、マネジメントそのものは、大昔からいたるところに存在していたのであり、「最も優れた経営者は誰かとよく訊かれるが、いつも『いまだに壊れることなく建っている世界最初のピラミッドを4000年前にはじめて構想し、設計し、建設した人物である』と答える」と述べていた。(P,F,ドラッカー(上田惇生他訳)『ポスト資本主義社会』ダイヤモンド社、1993、pp71-95)

以上、高橋について、その経歴と仕事を中心にして論じてきたが、最後に彼の業績をどのように評価すべきか、という点について述べ締めくくりとしたい。これまで高橋は、大正期から昭和前期に大蔵大臣として活躍した積極財政主義者として評価され、「高橋財政」という表現も定着している。しかし、この評価は一面的である。高橋は、その活躍した時間の長さ、浮沈の激しい仕事経験とその広がり、さまざまな分野で上げた画期的な成果と、どの点から見ても特筆すべき足跡を残している。そしてこの多彩な活動を貫く一つの軸が、今日いうところのマネジメントの思想に他ならなかった、ということができる。しかし、今日においても、日本ではマネジメントは理解しにくい多義的な概念である。まして戦前期においてその実践者は例外的な存在だったのであり、体系的な理解者はいなかったのである。
*R.J.スメサーストも、高橋が、1930年頃までに財政家としてとるべき重要な原則を会得していた、と述べている。そして、高橋以外に当時、さらに戦後のケインズ革命の時期まで、日本の財界人や政治家は、誰一人としてこれら諸原則の全体としての意味を理解できなかっただろう、と指摘している。ただ、彼は、この高橋の思想をケインズに関連付けたのであり、マネジメントの問題意識は欠落していた。(R,J,スメサースト、前出、pp378-379)

高橋是清は、日本におけるマネジメントの思想を実践した先駆的な人物として再評価されなければならない。この偉大な先人を正当に評価すること、そして教訓として今日の状況にどのように取り入れていくのかが問われている。これこそが、現在進行しはじめた長期デフレ、経済停滞からの脱却をめざす経済再生の戦略において取り組むべき優先課題の一つである、といえるのではなかろうか。

主要参考文献
1・高橋是清(上塚司編)『高橋是清自伝(上・下)』(中公文庫)、1976。
2・高橋是清『随想録』(中公クラシックスJ42)、2010。
3・Richard J, Smethurst, TAKAHASHI KOREKIYO, Japan’sKeynes, Harvard East Asian Monographs 2007.(鎮目雅人他訳『高橋是清』東洋経済新報社、2010)
4・大島清『高橋是清』(中公新書)、1969。
5・松元崇『恐慌に立ち向かった男 高橋是清』(中公文庫)、2012。
6・中村隆英『昭和史Ⅰ』東洋経済新報社、1993。
7・中村隆英『昭和恐慌と経済政策』(講談社学術文庫)、1994。
8・岩田規久男編著『昭和恐慌の研究』東洋経済新報社、2004。
9・吉川洋『ケインズ』(ちくま新書)、1995。
11・Peter,F, Drucker, The Post-Capitalist Society、Harper business,1993.
12・横手慎二『日露戦争史』(中公新書)、2005。


posted by jtta at 09:32| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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